智恵子抄の旅〜最終回〜

福島から年代を追って、光太郎と智恵子の足取りを辿ってきましたが、最後は、二人の原点である、千葉県犬吠埼へ行きました。
二人が出会って、お互いの存在を意識し始めた頃、光太郎が写生に出掛けていた犬吠埼に、智恵子が訪ねます。
郷里に縁談話もあった智恵子でしたが、光太郎と出会って、思いは一心に光太郎に向かい、ある決意を持ってこの岬まで訪れたのではないでしょうか。
光太郎もこのとき、智恵子の清純で素朴な人柄に触れ、「二人の運命のつながりを感じた」と記しています。
この犬吠埼での時間が、二人が共に歩んでいく運命を決定付けたと言ってもいいと思います。

犬吠埼のエピソードで、二人が散歩に出掛けるときはいつも旅館の女中が後を付いてきたと言います。
当時この辺りは断崖絶壁になっていて、すぐそこは太平洋、心中するのではないかと疑われたようです。
今は地形も変わっているのか、断崖と言ってもそれほどではありませんでしたが、大きな岩に当たる波の音が激しく印象的でした。

この犬吠埼は何と言っても日の出が見事です。
九十九里で見た日の出もきれいでしたが、こちらの日の出はもっと迫力があって、海面から日が昇ってくるときのダイナミックな色の変化や、太陽の光が海を超えて真正面からこちらに向かってくる力強い輝きは、本当に「圧巻」です。
太陽のこの強さを見たら、人は誰でも小さな存在となって、ただ眺めることしかできないでしょう。
光太郎と智恵子ももちろん、この日の出を感動して見たと思います。
二人は常に自然の中で結ばれ、自然をこよなく愛し、共に喜び、謳歌し、たくさんの景色を一緒に見たことでしょう。
共に見た景色や共に過ごした時間こそが、二人の頑健な愛の源だったということが、この旅を通してよくわかりました。

僕等はいのちを惜しむ
僕等は休む事をしない
僕等は高く どこまでも高く押し上げてゆかないではいられない
伸びないでは
大きくなりきらないでは
深くなり通さないでは
ーー何といふ光だ 何という喜だ
(僕等)

私は「智恵子抄」に取り組み始めてから、実に多くのことを考え、そのときどきで心に触れる部分が変化していきました。
「智恵子抄」読んでいるとき、自分もやはりこの詩の中に生きているのだということを感じました。
私が「生きる」ということと、光太郎と智恵子が「生きる」ということは全く同じ次元なのです。
だからこそ、誰の心にも触れられる普遍性が、「智恵子抄」の愛される所以なのだと思います。
さあ、もうすぐ本番です。
朗読、音楽、写真、それぞれの観点からの「智恵子抄」が交差し、どんな舞台になるやら。
お楽しみに。

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