2024年
10月2日(水)
「光る君へ」はフィクションだとわかりつつも、藤式部のような才能ある女性が、仕事以外のことはまったくうまくいかないのは、そりゃそうだろうなと、興味深い。「己の身に起きたことはすべて物語の種にございます」とか言っちゃうんだから。そして父親に「おまえが幸せならそれでいい」と言われるが、まひろは複雑な表情をする。才能を生かせて裕福な暮らしもできて幸せといえば幸せだが、果たして幸せってなんだ、と父親に言いたくなる。フィクションだけど、あながちフィクションだとも言えない。
9月29日(日)
人が幸せであることには他との比べようがない。なのに、欠けている部分に関しては、いくらでも人と比べることができて嫉妬や不安の種を探すことができる。不思議な現象だ。それはごくごくありふれた感情の動きだと思うが、生命の存続に何か有意義なんだろうか。
9月21日(土)
須賀敦子の『コルシア書店の仲間たち』を読み終える。あとがきにこう書いてある。
「コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を描いた。(略)それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。」
書店に出入りするいろんな人生を生きるそれぞれの人たちの孤独を、須賀は生き生きと書いている。つい昨日のことのように事細かに。須賀の中でも時の流れがわからなくなるくらいイタリアでの生活はいつまでも色鮮やかだったのではないだろうか。過去というのは過ぎれば一瞬だが、その一瞬をどんなふうに感じるのか、その感覚と土地や人との関係が、その人の記憶を作るのかもしれない。
9月20日(金)
壁と壁の間、扉の手前、そんな感じのところに今いる。いつまでそこにいるのかはわからない。たぶん、もう、自分の手で壁を破るなり扉を開けるなどしたらいいのだろう。それができるくらいにはなったろう。できれば、「せーの」でそれをしたい。後から後から意味づけを重ねていっても仕方がない。どうせ張りぼては剥がれるのだから。人間の想像力は人と人が繋がれる経路を創造することに使うほうがきっといい。
9月13日(金)
木との思い出を語ってほしいと突然頼まれた。すぐに思いついたのは、青蓮院の楠だ。川端の小説に描かれている大きな3本の楠のうち、一本は病気になって痛々しい姿になっていた。川端が『古都』を書いてから60年も経つのだから仕方ない。最近会いに行ってないが、まだ切られずに生きているだろうか。もう一つ大切な木は、広沢池近くの大きな桜の木だ。この桜が咲いた姿はそれは圧巻だが、季節を問わず何度も会いに行った。私は大切な木の元に大切な人を連れて行きたがる癖がある。この二つの場所には大切な人を連れて行った。それが私の木との関係を物語る思い出だろうか。
9月10日(火)
一冊の本を読んで集中が深くなることがある。一晩の夢を見て思考が変わることがある。一人の人と会って心が解放されることがある。一生はそんな一瞬一瞬の繋ぎ合わせだろう。
8月24日(土)
今一番優先的に目指すことは、息の長い継続した取り組みをすることだ。よりミクロな、明確なイメージでの取り組み。いくつかの事柄から成るそれらの取り組みは、互いに共鳴し、助け合うだろう。そしてそこに関わる人たちとの協力、自分がコミュニティに属すということ、出会う人との繋がりすべて。真剣にこのlifelong endeavorに挑戦したい。というかもう始めている。自分がそのように思える環境に出会い、この4年間で確かなものに変化していったと思う。直感的には間違いないと思ったが、確信に変わるまでには時間がかかる。transitional periodはどれだけ続くのかわからないからしんどい。けど自分の意思を確かにする大事なプロセスだ。
一人の人生には、多くの人の思いが複雑に絡み合っている。その思いを含め、自分の人生をどのように見るのか、常に決断、選択に迫られる。それは同時に、相手の決断、選択を受け入れる覚悟の表明でもある。
8月22日(木)
自然は人間を試す
風がなくて舟が進まないとき
次に吹く風を待つことができるか
星が雲に隠れ方向を見失ったとき
信じて朝を迎えられるか
空を知れ
海を知れ
悔しさに涙をのむことを知れ、と
8月16日(金)
台風の影響で東京行きが一日延びた。先月も新幹線の事故で翌日に延期した。このところそんなことが続く。予定が空いたせいで今日は何でもできたのだが、朝から頭が痛くて起きられず、横になりながら本を読んだり眠ったりする。夕方起き出して、いつもの銭湯&お好み焼きコースにしようと出かけるが、両方とも休み。仕方なく蕎麦屋と別の銭湯となった。商店街は古本屋が多いから、ついつい立ち寄って2冊購入してしまう。100円やら50円やら、良い本がほとんどタダの時代だ。会計のとき店員は書名も見ない。客がどんな本を買うのか興味ないのだろうか。ないのだろう。帰りがけにスタバに寄って買った本を読む。お盆休み中だから、いつもはいない家族連れが目立つ。子供の叫ぶ声や親の叱る声にも負けず、読書に没頭した。そういえば、今朝頭が痛くて寝ていたときに昔の夢を見た。正確には、昔あったような情景が夢に出てきた。ふと目覚めて頭に浮かぶことがあった。わからなかったことが腑に落ちたような感覚だった。夢を見るというのは思考を撹拌させるような効果があるのだろうか。たまには休日っぽい日もいいのかもしれない。
8月7日(水)
"Believe in focus, be clear at all costs."
(Listening, Nik Bärtsch)
集中をあなどってはいけない。
8月6日(火)
「寒い冬の朝、レールが凍ると、重い貨物列車は車輪がすべって、登り坂で立ち往生する。レールに砂が撒かれるのだが、それでも車輪は空回りして、列車は前に進めない。その冬はそんな日が何日かつづいた。夫の出張で、姑の家に泊っていることだけでもせつないのに、この音で目覚めてしまうと、なぜか心細さがどっと押しよせてきて、自分が宇宙のなかの小さな一点になってしまったような気持になる。」(『鉄道員の家』須賀敦子)
須賀が書くイタリアでの生活のことは、夫を亡くしてからだいぶ経った後の彼女の回想である。だから、結婚生活や夫のことが絡む話題のときにはどことなく哀しさや暗さが漂っている。長いエッセイの中のほんの一部の何でもない文が、なんだか全てを物語っているようで、こういう細やかな心情をきちんと言葉にあらわせること、またあらわすことに躊躇いのないところに、須賀の魅力を感じる。
ちょうど、須賀が書いたようなこういう心細さを感じるときがある。心細さは不安とも言える。自分が宇宙の一点であることはどんなときも変わらないのだが、それを心細いと感じるときと、満たされていると感じるときがある。満たされるときは、そう、中也の「ゆふがた、空の下で、身一点に感じられ」たようなときだ。おおよそ、日々何かに取り組むことは、朝生まれた不安をひとつひとつ打ち消していく作業に費やされ、一日の終わりには一応満たされている、という繰り返しのような気がする。毎日観測するメモリが一定以上であれば、十分な生き方だと思う。
須賀は兵庫県で戦時中を過ごしている。そして、戦後ではまだ珍しかっただろう、単身パリに留学し、その後イタリアで生活するようになる。時代というものが、人々の生き方や考え方にどれほど影響するだろう。戦後のレジスタンスが当時の人のひとつの生き方だったとすれば、今は、仔細はどうあれ安定したものを手放さないという抵抗、あるいは何でも選び取れるという自由の押し売りへの抵抗か。
戦争を体験している物書きはほとんどいなくなった。だから残された言葉が私たちの宝だ。
7月24日(水)
実家の部屋を整理していた。ピアノの近くにはこれまで書いた手書きの楽譜が山ほどあって、埃をかぶっていた。たぶんもう見直すことも使うこともないそれらの手書き譜を、捨ててもよかったのだが、なんとなくそうせず、埃をはらって棚におさめた。
ここのところ須賀敦子をずっと読んでいる。須賀のエッセイ集では、幼少期のこと、学生時代のこと、結婚生活のこと、イタリアでのこと、日本でのこと、須賀の記憶の中のさまざまな時代や場面がひとつの線上に置かれる。読者は時系列を追って読むことができないから、これは前に読んだあの場面のことか、とこちらも須賀の記憶を追った記憶をたよりに読むことになる。数篇を読むとだいたいいつの時代のことが書かれているのかわかるようになり、須賀通になった気がしてくる。書かれていることはもちろん、過去のことなのだが、いつの時代のことも描写がとても細かい。出来事だけでなく匂いや色や空気感、そして一定の落ち着いたトーンだが感情もきちんと記されている。須賀が亡くなった夫からプレゼントされたという辞書のことが書かれていた。その辞書はどんなにボロボロになって、また辞書として古臭くなっても、いつも手放さずに使い続けていたという。理由は、夫にプレゼントされた思い出の品ということもあるが、翻訳や執筆に格闘した時間の蓄積をその辞書がなにより知っているからだ。須賀の書くものの、いつの時代でもどこの場面でも記憶の描写が繊細なのは、人生の折々の形跡を簡単に捨てなかったからだろう。
現代ならデータとして保存されたものは半永久的に残りはするが、簡単に抹殺することもできるし、記憶から忘れ去るスピードは速い。時間をかけて手書きでスコアを書いたときのことはよく覚えている。それらは今の仕事と関係がなくても、やはり自分の人生の形跡だ。形跡はそう簡単に捨てられないし、捨てないほうがいいと思っている。なぜなら、捨てようと思うほどの特別な動機がない限り、そのものをどう扱うか、残すことに意味があるか意味がないか、などというジャッジはどうやってするのか、私にはわからないからだ。もちろん、ものはものだ。いずれ手放すときが来る。でも、なんとなく捨てられないという気持ちは、過去でも未来でもなく、現在の気持ちだ。過去への羨望も未来への畏怖も、何もかも現在には含まれていて、それらが何であるか今表すことはできない。だから形跡だけは、今は棚にしまっておくのが精一杯だ。
7月21日(日)
母国に帰る友人を見送った。一緒に見送った人が、「別れは苦手だから一緒にいてくれて助かった」と言った。実は私も、一人で見送るより気が楽だった。もちろん、また日本に戻ってくることがあるだろうが、彼が日本に滞在した2年間のことを近くで見ていた私たち同僚としては、旅立つ人に気持ちよく旅立たせてあげたいという共通の気持ちがあった。だから一緒に「別れの儀式」を行なえたことはよかった。ヨーロッパを旅していたとき、何度も出会いと別れがあった。電車のプラットフォームやバスの乗り場で何度も見送られた。また会おうと言ってハグをして。ときには苦い別れもあった。海外で出会った人や土地は、次にいつ会えるかはわからない。もしかしたらもう会えないかもしれないという気持ちもどこかにある。一瞬でも一緒にあった時間は、思い出として深く残る。別れの場面もその中には含まれる。だから、苦い別れをした人のことは今も心残りだ。日常もそうかもしれない。今日誰かにさよならを言うとき、会えてうれしかった気持ちを伝えられなかったとしたら、もしそのまますれ違ってしまったとしたら、心残りはそのあとずっと消えることはない。それが儀式だとわかっていても、「会えてうれしい」「またすぐ会おう」と日常的に挨拶をするヨーロッパの人たちの言語とジェスチャーによるコミュニケーションの仕方は、理にかなっていると思う。儀式も身につければattitudeに変わるからだ。友人と過ごした2年間、いろんな場面でパートナーシップを結べたことに感謝する。
7月20日(土)
どうやら私は祇園祭という祭りがとても好きらしい。去年までは京都にいて日常的にそこにあったのに、その特別感にあまり気が付かなかった。京都に住んでいる人に聞くとたいがい、祇園祭なんて人が多くてわざわざ見に行くもんじゃない、という。しかしあれは尋常でない特別な祭りだ。山鉾の巡行をメインとして、一ヶ月間神事としての祭りがずっと行なわれている。その全貌はわからないが、紛れもなく人の技術と思いで何か特別な空気が作られている。それも悠久である。京都の人たちはそのことを、特別のこことも思わず、何食わぬ顔をして、しかし同時に京都人の特権という誇らしさも持っている。私はただただあの祭りの静けさが好きだ。どんなに人が集まって囃し立てても、悠久のときは常に一定の静けさを保っており、血が騒ぐどころか、魂が鎮められる思いがする。そしてあれだけの祭りをいっぺんに知ることは不可能だし、そうしないほうがいいような気がしている。少しずつ毎年、長く見ていきたい祭りだ。
7月12日(金)
Nikの8年ぶりの来日公演を聴き、時間の巡りを感じた。その8年前頃にはいろんな素晴らしい音楽を聴いていたが、Nikの音楽には本当に影響を受けた。スイスでワークショップを受けたことも大きい。9日の神戸公演の初日に会場で彼と顔を合わせたとき、私が「久しぶり」と言ったら、彼は「そんなに久しぶりとは思わないよ」と言った。不思議なことを言うと思ったが、確かに、会わない時間は長かったけれど、何かページを1ページめくっただけのような気もする。前回会ったとき(2018年スイス)から、私は大きく状況が変わった。だいぶ成長もした。その原点があのワークショップだった。そして彼も、音楽がより深化していた。神戸の二日目の昼に彼とゆっくり話す時間があった。音楽のことや能のことやいろんな話をしてとても楽しかった。私は彼の物腰のやわらかさや精神的な明るさや優しさにいつも感銘をうける。今回日本に来ることができたのは、そういう彼の人柄からつながった縁と、共鳴の連鎖(Nik的言い方をすると)から実現したようだった。私は彼が8年も日本に来るチャンスがなかったことに少し疑問を感じていたけど、彼は世界中をめぐりながら着実にサポーターを増やして、少し遠回りをして、でも空白が一瞬の出来事のように、いつものあのやわらかい笑顔で現れた。Nikの音楽がまさに、時間の概念を忘れるような音楽だ。音の輪郭が生まれては消え、細かなビートは大きな川の流れの中に吸い込まれていく。始まりと終わりは解け合ってしまうが、かならず巡る。巡る瞬間のために、相反するものは互いに打ち消されていく。素晴らしい音楽に感謝。なによりNikと今会えたことは、ありがたい巡りだった。
7月8日(月)
アパートを出て100メートルほど歩いたら川の土手に出る。土手の両側には松や桜や栴檀の木(知っている名前はこれくらい)などが植っている。けっこう大きな木もある。ちょうど今のように日が強烈に照っている日中、土手に出ると、木蔭の爽やかさと美しさがふわっと広がって、その瞬間がとても気持ちいい。帰りの夜道など、木の葉の間から月が見えるときがある。
毎日歩く「道」について考えている。今度の「道」は、山から海へつづいている。
6月25日(火)
ダニエルのツアー中、ライブの後にご飯を食べていたら、彼が突然「歯が割れた」と言った。翌日歯医者に行こうかと思案していたが、幸い痛みもなく、帰国してから治療するということになった。そんなことがあって昨日、まったく同じことが私にも起きた。そのことをダニエルにメールしたら、彼は帰国後すぐに治療してもうなんともないそうだ。メールには「空いた穴はいつでも思ったより大きく感じるものだ」と書いてあった。ダニエルのことだから、文字通り歯の穴のことと、別の意味もそこには含めているのだろう。私もそう思う。空いた穴は自分が思うよりも大きくないかもしれないし、どんなことでも修復しようと思えばできないということはないだろうし、たとえ欠けてたって、それも自分だ。
ダニエルの歯が割れた夜、三宮の駅周辺が若者で賑わっているのを見て、"Young people with good teeth"と彼が自虐的なこと言うから、「それは曲名?」と私が聞くと、「あり得るね」と彼が言い、笑い合った。美しい時間だった。
6月22日(土)
「偶然」「奇跡」と思えるようなことに会うとき、自分の潮目の変わり目を感じる。今週は二つ、三つあった。確かに、偶然を装って驚くような出来事はふいにやってくるが、それはいくつかの条件が重なったときに、万事よいという合図(あるいは潮目が変わることの警告)としてやってくるものなのだ。用意されている条件一つ一つは、ただ各々の時間で進んでいるだけだ。こちらがじっと待っているとき、その次のcritical pointで、それらが必要な状態で事象として目の前に現れる。この間スペイン人がフラメンコの用語で"duende"という言葉あると教えてくれた。"duende"は、ダンサーまたはミュージシャンが生み出す奇跡的な感動の瞬間のことだという。その言葉でしか表せない、他の言葉に置き換えることができないものらしい。その瞬間は、やはりいくつかの条件が揃ったときに生まれるものだ。音楽の現象はすべてそうだ。道ばたでばったり知人と会うような現象も、一種の"duende"なのではないか。
6月19日(水)
岡潔の『春宵十話』が面白い。「真善美は、求めれば求めるほどわからなくなるものだと思う。わからないものだということを一般の人たちがわかってくれれば、それだけでも文化の水準はかなり上るに違いない。」というのは本当にそう思う。「わからないをわかる」ということは、「わかりたい」の積み重ねでもあって、これは何だろうという感覚を持つと「わからない」がどんどん深まっていく。勉強すればするほどわからない領域が下のほうへどんどん広がっていく。途方もないと思う。でも本当はそれが学問や芸術の喜びなのだ。幼い頃から音楽教育を受けていても、「どうやって音楽を聴くのか」は教わってこなかった。そんなもの教わるものではない、のかもしれないし、教えられる教師は少ないだろう。私は、三十代になって初めて本当の意味で「聴く」という体験をした。その時期浴びるように体験したさまざまな音楽は、「わからないけどなんかすごい」音楽だった。その時期に生で聴いていた音楽は私の人生にかなりの影響を与えた。だから、教育をきちんと受けてきたと自負がある人間ほど、純粋な意味で「聴く」「見る」という経験に乏しいということがあるのかもしれない。それはその人の心の状態や対象への態度、それから知性に関わるからだ。詩人のキーツが唱えた「ネガティブ・ケイパビリティ」も、まさに「わからないをわかる」ことや、下に広がっていく世界に学問や芸術の本質があることを言ったのだろう。岡潔が、知性だけでは学問は成立しない、個人の感情の満足がなければ成り立たないのだと言っていたのも、すごく面白い。数式も、時間の概念も、個人の感情なしには成立しないのだ。岡が50年前に言ったことでさえ、私は時代の自由さを感じる。一皮剥けばほとんどの人が病にかかっているという岡の50年前の分析は、今どう変化しているだろう?
6月3日(月)
音楽をやっていて一番面白いことは何かというと、自分を探求できることだ。人前に立つことは特に、そこに面白さがあるのだと気づいた。落語家が高座に上がって芸をするように、どんな場所でも高座さえあれば芸を通じて人々と行き交うことができる。その高座の上での自分を一番楽しめる観客が自分なのだ。
5月21日(火)
たしかに、傷ついた
互いに、皆、傷ついた
世界に境界線がないのに
線があったかのようなふるまいに
人間の卑しさを感じた
傷ついた、たしかに
皆、傷ついた
この世には魂しか存在しないのに
何にならなければいけないというのだろう
魂ではお嫌?
私は自由だ
あなたの望みを尊重することも
執拗なあらがいを軽蔑することも
私は、自由なのだ
混濁したものを精製することも
失うことを承知で預けることも
なにもかも自由だ
粛々と飄々と
音も立てずに
私は魂と成り果てる
5月17日(土)
穐吉敏子のNHKの特集番組を観た。終戦時16歳、1956年に渡米。当時単独で渡航すること、女性が渡航すること、日本人がジャズピアニストになること、日本人女性がジャズピアニストになること、どれも簡単ではなかっただろう。一徹した行動力のある人、ハードルが高いほど能力を発揮する人なのだろう。
数年前に東京で生演奏を聴いた。すでに身体は衰えていたが、迫力はすごかった。ジャズピアニストと作編曲家の両輪で花を開かせたという意味ではCarla Bleyとも通じる。どちらも独自の道、独自の世界観を貫いている。
何を自分の売りにしたらいいか、どういう方法なら表現者としても生活者としても生きていけるのか、これだという道を歩み始めるまでには紆余曲折がある。穐吉はあるときから、自分でコントロールできないことは気にかけない、心配しないことに決めた、と語っていた。逆に言うと自分でコントロールできること、練習をしたり曲を書いたり学んだり、自分の手でできることに集中しようと決めたということだろう。「死んだ後が(作曲家としての)本番」とけらけら笑いながら言っていたのが印象に残った。
5月8日(水)
ここにつながると
あそこにたどりつく
あそこにつながると
ここにかえってくる
未来はここでつくられて
過去はいまをたしかにする
せかいの導線はどうなっているんだろう
あなたとわたしは別の人なのに
なぜだか笑顔がおなじようになる
4月24日(水)
ヴィヴィッドに浮き上がってくるものの
輪郭を消していく
手放すということとはちがう
何も殺さずに存在させるため
これが当代風です
余計な混じり物はありません
無数の星屑の集まりによって
弱い光がつくられる
できるだけ長く
できるだけ遠くへ
時間の彼方へ届くよう
4月19日(金)
あなたのような空だと思いました
陰影のない
どこまでも透き通った
曲がり角のない
笑っている空
遠くへきたと思ったのはずっと昔でした
凛と立ち
すべてを吸い込み
何にも混ざらない
永遠になった青
今日があなたの生まれた日だからでしょうか
あなたのような空だと
安心したのは
高くのぼった満月は
いつか見た月
4月10日(水)
坂本龍一が亡くなってから一年が経ち、NHKで特集が組まれていた。亡くなる直前までの映像や日記を公開するなど惜しみない内容だった。病気で弱ってしまい音楽を聴く気力も無くなってしまった坂本が、日記に「雨の音しか聴けなかった感覚を忘れずに作品を作ること」と綴った。とても共感できて印象に残る言葉だった。ものを作り続けるために必要な感覚、仕事との向き合い方がここに集約されていると思う。坂本は闘病中いろんな本を読んでいたという。どう生きたらいいか、どう死んだらいいか、本の中に答えと癒しを求めていたのではないだろうか。日記や写真や映像が惜しみなく公開されたのは遺族のはからいでもあり本人の遺志でもあろう。結局ものを作って発表することは、世界に対する問いかけをすることにほかならないのだと思った。そこにどんな問いかけがあるのかがその作者をあらわしている姿であり、その問いがいつどのように誰に届くのかは作者にはわからない。むしろ作者が死んだ後(死んだ代わりに)、作品が生命を持つのかもしれない。
4月6日(土)
円空展を観た。10年以上前、和歌山を旅していたとき、小さな祠に円空仏が祀られているのを偶然に発見した。地元の人が、中に入って見れるよと教えてくれ、鍵もかかっていないお堂に入り間近で見ることができた。このように、円空が生きていた時代には民衆の中に入り込んでいた仏だったのだろう。円空はあるとき、己の彫る仏像はすなわち仏そのものなのだ、というお告げを受けたらしい。そのときから仏像をとにかく彫って民衆を救うことを使命とした。まずこのことで円空の一生の仕事が決定し、何世紀先にまで及んで仏像を超えた円空仏というアート作品が伝えられることになった。何世紀も生き続けたアート作品は、一度誰にも忘れ去られる期間を経験していることが多い。円空も、彼の死後はほとんど忘れられていたが、昭和初期に再発見された。これは大事なプロセスである。なぜかというと、ブランクを経て再発見されたときに、人々はその作品の意味を改めて考えるからだ。同時代の作品(仏像は作品とは見られていなかっただろうが)の意味が深く洞察されることはほとんどない。近すぎてわからないのだ。むしろ新しい時代の人が新しい感覚で受け取り、価値を見出していくほうが自然なアートの受容のされ方なのかもしれない。そして一度価値を失ったものが再び息を吹き返したら、その力は元の何倍にもなり、そう簡単に消えることはない。そこで、円空のした仕事とは何かと考える。たくさんの仏像を彫って人々を救ったことか。仏像の常識を超えて新しい造形を編み出したことか。一本の丸太から三位一体の仏像を彫り出したり、本来の木の特徴を生かした造形を生み出したりといった、作品にあらわれる円空の自然観・宇宙観は言うまでもなく素晴らしいが、一番の功績は、彼がお告げを受けてから、自分の仕事を正しく認識して実行した賢明さにあるのではないだろうか。自分が本当にやるべき仕事を見つけることさえ、多くの人には難しい。私はそんな些細なこと、でも重要なことに感動してしまう。
4月2日(火)
温泉に行こうと思っていつもの駅を降りたらBig Issueを売っていて、表紙がボブ・マーリーだったから購入した。マックに寄ってそれを読んでいたら、別の記事の中に「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を見つけた。「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、『不確かさの中で事態や状況をもちこたえて、不思議さや疑いの中にいる能力』のことで、ジョン・キーツという詩人の言葉から、精神医学に取り入られた概念だそう。反対のポジティブ・ケイパビリティは、たいがい私たちの日常で行なわれている、物事は解決させるもの、明らかにするものという前提で思考する状態。「一月の声〜」の映画でもそうだったけど、あれは何も解決はしていない。ただ問題の中に置かれた状態で水面に上がったりまた潜ったり、そういう営みを許容しようと努力している人たちの話だった。映画を観たあとに「向き合おう」と思った対象は、自分が今持っている不確かさや疑問がどうなっていくのか見届けたいという気持ちだった。昨日考えていたことともちょうど重なる。決断に迫られたとき、仮にポジティブ・ケイパビリティをもって明らかにしたところで、それは本当に望んでいることなのか?本来の解決なのか?という疑問が残る。そういうときは決断に迫られていないということにして、ペンディングにすればいいじゃないかと思ったのだ。これこそネガティブ・ケイパビリティではないか。
いつだって必要な言葉は向こうからやってくる。
4月1日(月)
越えたほうがいいことと越えなくてもいいことがある。明らかにしたほうがいいことと明らかにしなくてもいいことがある。まっすぐな線を引くのではなく、ゆるやかなあいまいな線でもいい。ただ今の自分にその状況がマッチしているのかは考える必要がある。他者にはジャッジさせてはならない。越えたいときは越えるし、明らかになるときは明らかになる。それが自分を信じるということ、すなわち自信につながる。
3月26日(火)
やたらと悲しい日というのがある。生理前のイライラと同じような、周期的な身体の反応だろう。箸が転がっても可笑しい年頃があるように、風が吹いても悲しい年頃もあるのだ。そういうときは温泉に行く。近所に温泉があるなんて贅沢だ。これぞ六甲の恵み。
最近よく行く温泉(天然温泉なのに銭湯と同じ値段!)には小さな浴槽があって、いつもそこには地元のおばあさんたちが5人も6人も寄り合ってぎゅうぎゅうになって入っている。いかにも仲睦まじくて微笑ましかったのだが、そのお風呂はいくつかある浴槽のなかでも唯一の源泉かけ流しだということがわかった。仲睦まじいのではなくてバーゲンセールに群がるのと同じで、源泉の取り合いだったのだ(まあ取り合ってはいない、やっぱり仲良く入っている)。ここの温泉は小さい子を連れた家族もよく見かけるし、雰囲気はとてもなごやか。サウナもあるが温泉が充実しているし別料金だし、入っている人は少ない。京都の銭湯のようにガチでサウナととのいに来てるおばちゃんとかはいない。ここらへんの土地の雰囲気というのは、陸続きでいくつかの国が共存しているヨーロッパのようだ。六甲の山と電車の沿線でつながった、横に広がる大陸って感じ。京都はまちがいなく島国ジャパンだ。
温泉に浸かったら悲しみは昨日のもの。明日ハ晴レカナ曇リカナ?
3月7日(木)
映画「一月の声に歓びを刻め」を再び映画館で観た。監督自身が映画が救いだったと語っているように、スクリーンに身を委ねているとき、心地よさを感じて、というのは初回には気づかなかったが、そういう理由で二回目を観たくなったのだと思う。初回も心を打たれて泣いたが、二回目はもっと泣いた。前田敦子という役者のすごさをさらに感じたし、自分に向かってくる何かを静かに受け止められ、自分の中心に深くずんと座るような感覚になる。やっぱり力のある作品だと思った。ちょうど梅田の映画館で観たのもよかった。この深い状態になりたかった。完全に嗜癖だ。ときどき映画や小説の力を借りてこの種のコンフォートゾーンに自分を追いやることがある。本来的な意味で自分を守るのは、状態を自分でコントロールすることだろう。芸術作品は最もその助けになってくれる。
3月1日(金)
友人が面白いことを言った。私は静寂と冷静さを持っていて、世の中の騒々しさを静める(鎮める)力があるのだと。私の音楽はそういう力を持っているかもしれない。しかし自分の内面は決して静かなときばかりではないから、むしろ音楽を作ることや物を考えることに静寂を与えてもらっている。それがなかったら私のエネルギーはどこへ向かうかわからない。友人はちょうど私の母と会って、彼女から山のエネルギーを感じると言っていた。彼はいつも人のエネルギーを真っ先に見る。静けさも怒りのようなエネルギーもどちらも強い生命力である。魂の居どころというのだろうか、自分の芯に触れるにはどうしたらいいのだろうということを考える。私の場合にはそれは明らかだが。
2月23日(金)
映画「一月の声に歓びを刻め」(三島有紀子監督)を観た。この映画のことは新聞のレビューを読んで知った。前情報として、監督が幼少の頃に受けた性被害のことを、役者を通じて告白するような形でドラマが作られていると読んだ。まず、カルーセル麻紀と前田敦子の演技が素晴らしかった。この映画のデリケートな部分と同居して、人間の底にある熱量のようなものがじんじんと伝わってきた。ドラマにおける主役はその作品の質をほぼ決定する存在なのだと思った。この映画は、作品のテーマである性や犯罪の問題そのものを直接提起する内容ではない。それをきっかけとして浮き上がってくる、すべての人間が負っている罪の意識や、自己の不可解さといった、個人個人で異なって抱えている問題のほうに光が当てられている。私は観終わって、今悩んでいる、気になっていることについて、このまま向き合い続けようと思った。解決されるまで、悩んで見届けようと思った。なぜならきっとそこから導き出した答えが私の知りたいことだからだ。前田敦子の演じる主人公が、最後のシーンで、腕につけていたアクセサリーを外して、お菓子を食べながら何か解放されたような表情で大阪の街を歩いているあの感じ、あの姿は監督の姿であろう。そして観ている人の人生のどこかのシーンである。良いタイミングで良い映画に出会えてよかった。
2月10日(土)
京都新聞の書評で見て読みたいと思った、横道誠の『解離と嗜癖 孤独な発達障害者の日本紀行』を読み終えた。なぜ読みたいと思ったかというと、書評に引用されていた本文があまりに自分と重なってドキッとしたのだ。本を読んで他にも共感する部分がたくさんあった。
著者は私と同い年の文学研究者で、40歳を過ぎてから自閉スペクトラム症と注意欠如多動症と診断されたという。それらの症状と関連して、社会との関わりに不快や不具合を感じたり、身体的な別の疾患があったりするそうだ。
この本は、著者の旅の記録なのだが、ただの紀行ではなく、本のはじめに著者の診断された障害について書かれてあり、その視点から、そのときどう思ったか、どう行動したかを、自己分析しながら、旅の行程とともに書かれている。ときおり文学作品や歌の歌詞など、著者の思考に入り込んだものが色とりどりに織り込まれている。この本の構成のされ方とか、克明な自己分析とか、嗜癖についての独白とか、すべて著者の特色がよく出ているなぁと思って、共感して読んでしまう。
私がドキッとしたのは、「その人と特別な関係を築きたいと思うあまり、度を超して接近し、まもなく足場を踏みはずして、奈落の底へと転落してしまうのだ。」という一文だった。著者は軽く書いているが、きっと何度も、失敗が失敗をよぶような経験をしたことだろう。お察しします、と言いたい。
私自身は診断もされていないし身体に疾患もない。でも、なんでだろう?と昔から思ってきたやりづらさがある。みんなそうなのかもしれないと思っても、やっぱりそうでもなさそうだと年を重ねるごとにはっきりしてくる。もしかしたら著者のいうところの「グレーゾーン」なのかもしれないが、人との違いというのはただのグラデーションだと最近は思っている。違いを白と黒で分けてしまえるはずがないし、人と違うことを否定したり、また同じであるよう強制したり、という社会の現象は全く理解できない。いろんな色のグラデーションだと思うと、自分の色もなかなか味わい深く感じる。
読書は私にとって孤独を慰める、あるいは深める一番の嗜癖だ。そういえば、孤独になることさえ人はなんやかんや言うよな、と文字を打つことに嗜癖しながら思う。
2月7日(水)
"Ars longa, vita brevis"というギリシャの格言は坂本龍一が亡くなったときに広まったが、このもともとの意味は"Skilfulness takes time and life is short"=「技術を習得するには人生は短い」ということらしい(wiki情報)。おそらく直訳の"Art is long, life is short"から「芸術は息が長く、人生はあっという間に終わる」という意味に拡大解釈されて、中国語訳ではだれがそうしたのか「芸術千秋、人生朝露」と詩的な訳になっている。artは今はアルチザンと区別されているけれど、もともとは絵描きも医者も同じ特殊技能者として一つの言葉で表されていた。artをどう捉えるにせよ、この格言の意味はartとlifeが対比して置かれていることに深い意味があるような気がする。つまり、artを営むこととlifeを全うすることはまったく異なった次元にある行為なのだけれど、いつの時代にもこれらは一人の人間によって同時代に行われているという事実がある。とても不思議なことだ。中国語訳にあらわれているように、artは永遠に終わらない長大な時間の中で営まれているのに、私たちのlifeはこんなに短いスパンで一通りのことを為さなければいけない。いや、実は逆なのかも。永遠に終わらないのがlifeで今生の「わたし」がartなのかもしれない。そうしたらartは未完成のまま永遠に続いて、artとlifeは区別がつかなくなるのだ。それはいい。
1月26日(金)
住む場所が変わるというのは大きな事件だ。引越しはそれなりにストレスが多いし、地域が変われば空気も気候も違う。引越して最初の夜、風の音がゴオゴオと轟いて怖い思いがした。ここは山と海に挟まれた場所だから、こういう音が鳴るのだろう。私はたいていのことはあまり怖いと思わないが、まだ自分の家になっていない家で、初めての夜にその音を聞いて心細くなった。友人にメールをしたら、それは「山の音」ではないかと返信がきた。「山の音」とは川端の小説である。小説の舞台になっている鎌倉とここは地形が近いかもしれない。なるほど山の音か、と思い、小説をまた読みたくなった。梱包された荷物の中からは到底見つけられそうになかったから、本屋で新しいのを買ってまた読み始めた。
そうして、ふと信吾に山の音が聞えた。
風はない。月は満月に近く明るいが、しめっぽい夜気で、小山の上を描く木々の輪郭はぼやけている。しかし風に動いてはいない。
信吾のいる廊下の下のしだの葉も動いていない。
鎌倉のいわゆる谷(やと)の奥で、波が聞える夜もあるから、信吾は海の音かと疑ったが、やはり山の音だった。
遠い風の音に似ているが、地鳴りとでもいう深い底力があった。自分の頭のなかに聞えるようでもあるので、信吾は耳鳴りかと思って、頭を振ってみた。
音はやんだ。
音がやんだ後で、信吾ははじめて恐怖におそわれた。死期を告知されたのではないかと寒気がした。
風の音か、海の音か、耳鳴りかと、信吾は冷静に考えたつもりだったが、そんな音などしなかったのではないかと思われた。しかし確かに山の音は聞えていた。
(川端康成「山の音」)
山の音は風の音ではないらしい。この主人公の家はもっと山の近く、山の麓なのだろう。私の聞いた音とは違うが、その音をきっかけにまたこの小説の存在を思い出すことができた。読み始めるとすぐに、何でもない一行にふっと涙が出そうになり、ああ、これが川端文学だったと思う。言葉が、心の、水を失ったほんの少しの部分に入り込み、容赦なく刺激してくる。こういうことができるのは芸術作品だけだ。「山の音」は何度も読んでいるのに、やっぱり、何度も刺激される。心細い夜にこの刺激は気持ち良い。
1月19日(金)
古いパソコンを処分しようと思って、中のデータを適正な形式に変換して取り出して、という作業をずいぶん前からやっていたのだが、取り出したデータを新しいパソコンで開くと「ファイルが壊れています」というメッセージが出てしまう。何しろパソコンが古いから、そうなのだろうと、私はそのメッセージを信じて、修復不可能なのだと半ば諦めて何ヶ月も放っていた。しかしいよいよ引越しをするためにパソコンは処分せねばならず、もう一度修復を試みた。今度はやり方を変えたら、ファイルは壊れていたのではなく、保存の方法が間違っていたのだと気づいた。
壊れたものを修復するには、一つの方法がダメだったら別の方法を考える、ということをしなければいけないのだとわかった。いや、その壊れたと思っていたものは壊れていなかったことに気づくのに、時間がかかったというだけだ。それに大事なデータだったから、簡単に諦めたくはなかった。だから、解決しないなら、少し時間をあけてもう一度トライしてみるとか、別の方法をいくつも試してみるとか、諦めるならそういうことをしてから諦めても遅くはないのだと思った。解決できなかったことが解決するのは気分がいい。スッキリ。
1月15日(月)
人の生きる世界では、いろんな時代や環境によって、どうも異なる次元が存在するようだ。過去のことならそれは「思い出」と名付けられる。でも、思い出として大事にしまっておいたものも、一瞬にして生々しい記憶として蘇ることがある。
『おかえり寅さん』で再会した満男と泉がそうであり、現在の設定のドラマに挟まれる昔の寅さんの1シーン1シーンがそうであり、この映画48作とリンクする観客一人一人の人生の一端が、シーンにつられてパッと花火のように輝く。と、三度目の視聴でもなお感動してしまう、この映画。
『男はつらいよ』をみていると、人間てなんでこんなにめんどくいんだろうか、生きることってなんでこんなに大変なんだろうか、でも愛って美しいよね!とやはりどの作品をみても感動してしまう。現代劇でもう誰もそういうテーマを取り上げなくなってしまったけど、どうしても私はこの世界にときどき帰ってどっぷりと浸りたくなってしまう。そうやって次元を行き来できるのが芸術の素晴らしさだから。ストーリーなどというところとは違う次元の、それはやはりどうしても「人間」そのものを描かざるを得ない切実さが、山田洋次の世代や世界にはあるのだろうという気がする。
終わるものがストーリーだとしたら、人間の生き様や築いた軌跡はそう簡単には終わらない。私も、終わらない物語を紡ぎたい。
1月12日(金)
東京。何年かぶりに風邪をひいて高熱が出た。
飯田橋で研究会。師と、そういえばルノアールって関西にないよねってことで行ってみた。なぜか私はシャノワールと混同していて、シャノワールシャノワールと言っていたら師が???という顔をしていた。高校生の頃に、学校をさぼるときとか、帰りの寄り道によくシャノワールに行ったものだが、今はシャノワール自体もうないらしい。なおさら関西人は知らないに決まっている。
東京の街が変わるなら自分も相当変わっている。東京を離れることがなければこうして師とルノアールに行くこともなかった。住み馴れた土地を離れることは新しい自分に出会うことだ。
1月9日(火)
元旦は早朝まだ暗いうち、車で日吉大社へ行った。冷たい雨が降る中、神職らによる儀式と能楽師による翁奉納に参列した。儀式は神殿に向かって執り行われる。松明が灯されるが、あたりは暗いので儀式の様子はほとんど声でしか認識できない。神職が何かまじないのような声を発しながらギイと扉の開く音がする。そして祝詞をしばらく唱えたのち、翁が舞われる。数メートル先にある神殿、あるいはその奥の山中へ、さらには空全体に向かって、「とうとうたらり」が響き渡る。舞が終わると、またまじないのような発声とともに扉の閉まる音がして、儀式が終わる。夜はまだ明けず、上の方から月が見守っていた。
儀式は、魂があるべきところに還る、散逸したものが元の場所へ還る、そういう機能を果たしていると思った。そして人間の声は、闇を通して、神か宇宙か生者か死者か魂か、何か遠くにあって寄りたいものへ呼びかける、そのために備わっているのではないだろうか。
2023年
12月31日(日)
私は流浪の民である
魂はしっかりここにいる
ここにいて、何かに成ろうとしている
赤く点滅する警告ランプに何度もいのちを拾われたのだった
人は、どんな人も、人と人との間で、いのちを拾い合いながら生きていくのだ
そして寸分の違いない一瞬の共鳴とともにいのちが生まれるのだ
私の体のまわりを覆っていた膜は今脱ぎ捨てられ
本当の流浪がはじまる
12月8日(金)
関係性は現象に過ぎない。今この間、誰かと仲良くしているときも、喧嘩して離れているときも、誰のことも想わずに一人でいるときも、どう感じてどう過ごすかがとても大事だと思う。
イスラエルとガザの問題について、いずれ共存しなければいけないときがくるが、共存したときの安定性は現在の戦況に大部分依存すると、専門家が言っていた。そういうことを当事者が考えているのかどうかわからないが、変えられない事実は互いの距離である。そこはいつわることはできないし、争いが激しくなるほど関係が歪んだ形で密になっていくのだろう。
あちらこちらで、難局をどう越えるのだろう、と気になることはある。が、今日は今日で自分一人にとって大事なのだということも忘れずにいたい。
12月5日(火)
あれは星ですか とわたしが問えば
あれは漁火ですよ と船員がこたえた。
星と漁火を 混同してはいけない
わたしはあなたとの距離を いつわってはならない。
わたしはいま あなたを想い えがき 懐かしさを感じるなら
いつわらずに告げるだろう
わたしは あなたから 離れるにしたがって
近づいてゆくと。
(大江満雄『ツガル海峡で』より)
11月28日(火)
『男はつらいよ お帰り寅さん』をNetflixで観た。実は2回目。公開された当初は観る気になれなかった。新作といっても渥美清もそのほかの主要な役者も出ていない「男はつらいよ」なんてがっかりするに決まっていると思ったから。でもこれがけっこうすごかった。寅さん48作観ている人には必ずぐっとくるであろう内容だった。約30年かけて築き上げられたこの映画の意味が凝縮されているような気がした。映画のキャラクターと、キャラクターに扮する役者自身の人生と、それから観ている人のこの映画を通しての人生が、オーバーラップして、時代も時空も超えてしまう。そういえば山田洋次は作品の中でキャラクター設定と実際の役者の人生とを関わらせる手法をよく使っていたけど、最後にはオーディエンスの人生まで作品の中に取り込んでしまった。ん〜すごいな。映画ってすごい。芸術ってすごい。山田洋次おそるべし。
11月15日(水)
今日が明日への移行期であり、同時に今日が頂点であること。毎日そのことを忘れないように。
11月9日(木)
昨日は一年で最も美しい秋の空だった。今日だ、と思ったから鴨川沿いを歩いていって芝生に寝転んだ。空の青と溶け込んだ。
今日は御所に行って秋の木々を見てきた。光や色や音と溶け込んだ。秋の終わりのほう。
私は美しい瞬間を逃さない。美しい瞬間を見たいと思っているから。
でも、逃さないから、いつも心奪われてしまう。
11月6日(月)
2019年5月24日にこう書いている。
「小さなピースから、長いセンテンスを作っていく。それは断片の繋ぎ合せではない。一貫した、変わらない情熱なのだ。」
東京にしばらく行って、小さなピースのことを考えていた。たとえば小さな幸せのピースをたくさん持ち続けていたらそれは断片的ではない永続的な幸せに変わっていく。知識や技術、人間関係だってきっとそうだ。持ち続けるからこそ価値のあるものになる。反対に持ち続けられないものはやはりただの断片でしかなく、いずれ自然と離れていくだろう。東京を離れても東京時代のなくならない思い出やつながりがあれば、すっかり忘れて捨て去ってしまったこともある。持っていたくても持ち続けられないものもある。東京はときどき行くと気づきがある。
今日、大学の指導教授に「息の長い仕事だから3年の間に結論に達しなくてもいい」と言われ、そうだなと思った。期限付きで結果を得ようとすることは、息の長い仕事に対する覚悟とは別のベクトルに意識を向けることになる。しばしば仕事に圧倒されたり焦ったりすることはあるが、自分のやっていることはいずれ時間のかかる仕事なのだし、長く付き合えば付き合うほど価値のある仕事なのだということもわかっている。そう思ったら、なんだそうかと安心した。4年前の自分は書いているけれど、小さなピースを集めていくことは案外大事なことなのだ。
10月30日(月)
歌14曲目が完成した。いろんな魂が交差している曲だ。
歌はこれから進む方向を示してくれる。曲が書けないときは進みたい方向が明らかでないときなのだ。自分はずっとそうやって、ピアノの前に座りながら物を考えてきた。それが自然なことなんだと、長い長いtransition periodを経てようやく気づけた。何も変わらずに、これからもそうしていくだけだ。
10月22日(日)
"The American author, John Updike, once said that he tries to work with the same calmness like the craftsmen of the Middle Ages who decorated the hidden sides of the pews with their carvings, although no-one would be able to see them after completion. I try, as much as I can, to live by the same principle."
(アメリカ人作家ジョン・アップダイクはかつてこんなことを言った。「中世の職人は、教会のベンチの隠れた部分に装飾を施した。完成したら誰の目にも触れられることはないのに。それと同じ静寂を持ってものを書こうとしている。」私も、できる限り、同じ信念を持って生きようとしている。)
エストニアの作曲家Arvo PärtがEstonian Worldのインタビューに答えていたこのエピソードがずっと印象に残っている。これは、2020年のロックダウン中のインタビューだった。このインタビューを読んですぐに、このことを友人に話したことも覚えている。この3年の間に世の中の状況がだいぶ変化した。その変化はゆるやかで目に見えづらいが、とてもはっきりとした変化である。変化の中にあるからこそ、ものづくりがすべきことは、 'calmness' に徹することしかないような気がしている。それは伝統的な事柄でも最新の技術開発でも同じことが言えるのではないだろうか。こんなに騒々しい世情にあって。
10月21日(土)
“I’m a composer who also plays piano, and I sometimes feel I should wear a sign onstage saying ‘She Wrote the Music.’”
(私はピアノも弾く作曲家なの。ときどきステージに立っているとき「この音楽は彼女が作曲しています」という看板を身につけておいたほうがいいんじゃないかと思うときがあるわ。)
“There’s nobody that plays like me — why would they? So if I’ve had an influence, maybe it would be if they decided to play like themselves. In other words, the whole idea of not playing like anybody is a way of playing.”
(私のようには演奏する人はいない。なぜだと思う?もし私が影響力を持って、彼らのように演奏しようと決めた人がいたら同じようになるかもしれないけど、別の言い方をすれば、他の誰とも同じではないというやり方が(私の)演奏のあり方ね。)
先日亡くなったCarla Bleyが過去のインタビューで語った。彼女の音楽は本当に誰とも似ていない。どんなフォーメーションでも彼女の音楽とわかる。すべて同じ音、同じ匂いがする。彼女の音楽はとても個人的な内的な空間の中でできていたのではないかという気がする。それは病的なまでの。個人が経験して個人が考えて導き出すcreationは、ごくごく狭い範囲で、自分と周囲の数人にしか共有できないようなものがとても自然だと感じる。そういうものの深さは普通と違う。そしてその深さの中にこそ安らぎがあって救いがある。彼女はピアノを弾くがその音楽を作っているのはCarlaである。そのことを強調することの意味は、すべてにおいて 'in a way of...' という姿勢を貫いている彼女の強い決意だと思う。ものを作り続けるためには強い決意が要る。すべてにおいて。無条件に。
Carlaの演奏を生で聴きたいという私のbacket listから叶わずに一つ失ってしまった。
10月16日(月)
2017年に初めてヨーロッパを長期で訪れたときのことをときどき思い出す。あのときの経験、あのときの気持ちは、今の自分の原点かもしれない。原点はいろんなところにあるのだけれど、あのときの経験は、それまでと違う人生(続きではあるけれど)を歩み始めようとした自分の、始めの一歩だったのだ。心が自由で、耳も目も感覚もすべて開かれていて、自然と人と繋がった。あのときの気持ち、感覚をずっと覚えていたい。
今は、またいろいろなことに縛られて、自分を何かからプロテクトしながら生きている気がする。もう少し自然に呼吸をしなければと思う。
人々が難しいと感じていることは、認め合うこと、許容することだと思う。音楽やアートはそういった隔てを解くために大きな貢献ができると思う。私はそのことに関してまず優先的に率直に向き合いたい。
何度でも、原点に帰ろう。
9月30日(土)
"Your arms are too short."
Fred Herschは子供の頃、他の子はつま先に手が届くのに自分は届かないことを母に告げたら、母は理由を短くこう言ったという。母親は傷つけるつもりはなく何の気なしに発した言葉だが、子供にとっては衝撃的な言葉である。しかし、それ以来Fredは自身の生き方の指針が決まったという。何か難しい局面に対峙した時、"Your arms are too short."という母の言葉がいつも頭をよぎったという。Fredはそのあとこう綴っている。
"Without quite acknowledging it, I began to set only the most modest goals for myself. I believed that inherently lacked self-discipline, and outside of music I didn't have good role models so there was no one to boost me up when I needed it most."
(とくに意識していたわけではないが、それから最も謙虚な目標だけを自分に課すようになった。私は本質的に自己修練に欠けていると信じていたし、音楽以外でお手本となる人がいなかったから、最も必要なときに自分を後押ししてくれる人は誰もいなかった。)
音楽家として人として多くのことを望むよりも、一つのこと、それもかなり限定して精力を注ぐ姿勢を選ぶことで、あのような美しい音楽を生み出し得たのだ。不足はときに大きな必要を満たしてくれる。
Fred Herschの自伝本を読み始めた。タイトルがとても良い。
"Good Things Happen Slowly"
9月17日(日)
I had a headache as I got out the bed. This transition period makes me feel exhausted, not only because of the weather. I always try to wait for a critical point in order to move forward and make my own right decision. Sometimes it works, sometimes it doesn't. Why do people want things to be black or white when we all create things together? Why do I blame myself for these co-created circumstances? You are mad trapped in a huge sanity. I have nothing to do with it except waiting.
9月6日(水)
19:20頃、西から東の空に渡っていく銀河鉄道を見た。車窓から漏れるいくつもの光が幸せそうにゆったりと空を進み雲の中へ消えていった。ジョバンニとカムパネルラの笑い声が聞こえた。ような気がした。
あとでインターネットで調べたら、スターリンク衛星と呼ばれるものだった。こういうものがもっとたくさん空を駆け巡るようになるんだろう。ここのところ宇宙についての本を読んでいたから、何億光年か昔のメッセージをついに受け取ったのかと思ったのだが。いろんなことがインターネットの情報でわかってしまうのは残念な世の中である。
われわれ人間は星から生をうけた。ということは宇宙の法則みたいなものがわれわれの身体の中にも再現されているだろう。宇宙に流れるわれわれの生命維持に必要不可欠な純粋な物質を捉え損ねてはいけない。
空を見よ。
8月25日(金)
「私が幸福についていいたいのは、不幸も考え方で幸福にすりかえるのではなく、自分が幸福と感じているものの再検討と、本当の幸福、より以上の幸福への希求をおこたりなくすること、についてである。」
(石垣りん『朝のあかり 石垣りんエッセイ集』)
戦後の焼け野原から人々は一からものを作った。あらゆる物や法やシステムや主義や、あるいはそれらが価値観につながる社会の連帯を。 戦前から戦後に詩人としてまた職業人として生きてきた石垣りんは、社会が変化するたびに、新しい価値観が構築されていくたびに、詩を書いて文章を書いて自らの存在をあらためた。相対的な何かではなく、本来の自分の求める自分。戦争のあった日と終わった日の境目を知っている人間は、特にそのことの重要さを知っている。本当は現代でも、ひとりひとりがきちんと自分を都度あらためていくことをしなければいけないと思う。向こうからご丁寧に差し出されるお団子の価値観をそのまま口に入れるわけにはいかない。 すりかえでない幸福って、あるよね。うん、確かにある。
8月18日(金)
祇園祭が終わり、五山の送り火が終わり、京都の夏は終わる。
伝統行事は毎年粛々と行われ、後に何も残さずまた来年を待つばかりとなる。
京都にはこれだけの観光客が訪れるのに、京都の祭りは賑やかしい感じがない。悠久のときを経てきた威厳というのか、堂々と静かである。祇園祭の巡行など酷暑の中、参加者も見物人も条件はとてもハードだが、鉾や山の佇まいや人々の粛々と行事を進めていく様を見ていると、胸にじんわり熱くなるものがある。不思議な感覚だと思った。
五山の送り火の日は毎年能を見て、そのあと送り火を見ることにしている。今年は初めて自宅マンションで見た。普段、夜になると気配を消したように真っ暗になる山に、ゆっくりと火が灯され、やわらかい炎が立ち上がる。やはり粛々と燃えている。思いの外美しくて感動した。京都の街がどんなに変わろうと、この行事の美しさや奥ゆかしさは変わらないのだろうと思った。
一つの周期が終わったら生命は死に、次の周期が始まる。それは粛々と行われる。
8月8日(火)
一ヶ月前、京都に着いた彼女はとても不安そうだった。それから一ヶ月間日本のあちこちでたくさんの経験をして再び京都に戻った彼女は、溌剌とした顔で、日本を離れたくないと言う。異国での旅がどれだけ人を成長させ、言葉で表せない豊かなものを心に宿らせるか、よくわかる。旅で心細い思いをすることも、人に親切にされることも、失敗することも、一瞬の出会いと別れも、すべて大切な思い出としてずっとずっと残る。私が初めて海外に一人で行ったのは35歳のとき。彼女は20歳でそれをした。この旅が彼女のこれからの人生に大きく影響を与えるだろうことは容易に想像がつく。
異国で知り合った人たちとは、次にいつ会えるかわからないし、二度と会えないかもしれない。でも、不思議とつながっている気がするのだ。離れている空間も時間も、存在はするけれどたいしたことではないように思える。それが旅の魔法なんだろう。
若い旅人に会ってそんなことを思った。
7月14日(金)
世の中にはこんなに言葉がたくさんあるのに、それらの中に自分の言いたいことを表す言葉が見つからない。人の作った言葉で語りきれなくなったのは成長の証だろう。本当の自律が始まったのだろう。
6月11日(日)
「「いくら噛み切ろうとしても噛み切ることができない論理」だけが考えるに値するものとして信用できる。」
『現代思想』の鷲田清一特集の中で、佐々木幹郎が鷲田清一との会話で発した自身の言葉を回想して、このように書いていた。表現することがまさに、その考えるに値することを考える作業だと思う。日常では、噛み切れないものはその噛み切れなさを打ち消すように、先に別の言葉に置き換えられてしまう。翻弄されるのはたいがいそういう言葉にだ。本当は、噛み切れないものこそずっと深く先まで考え通す価値のあるものだし、それを他者と共有できたらいい。たぶん、音楽や詩なんかはそれが得意なんだろう。だから私は、ここ2年くらいの間ずっと歌を書いていた。どうにも噛み切れない論理は、ちょうど歌にするのがよかった。同じ言葉でも、断言する言葉とは違う。限りなく希望に近いような言葉。予言する言葉。それが歌だと思った。
佐々木幹郎の「信用できる」という言葉には何か安心させられた。考えてもいいのだと、考えることをやめなくていいのだと。
6月1日(木)
頭の中にあることは他の人に伝わってると、いつしか勝手に思い込んでいる。
過去の自分の経験にも取り入れた知識にも毒されている証拠だ。
「才能とは、もう一度、一番最初から再出発させる力だ」(アルチュール・オネゲル『私は作曲家である』)
最初の動機に立ち返らせてくれ強い衝動を与えてくれるのは、自分よりも自分をよく知っている自分以外の存在だ。
この世は個体とそれを取り巻く波動で成り立っている。
依存論を考え始めた時点で、自分が世界と切り離された個体になる。そうではなく、自分が他のなかにある意味を、共存している理由を先に考えるべきだ。
最も尊敬する人に最も苛烈な批判をしなければいけないこともある。それは矛盾でもなんでもなく、始まりが終わりになり終わりが始まりになるようなものだ。
5月13日(土)
池の蛙、手水鉢の蜂、草陰の蜻蛉、彼らは意味もなくそこにいない。
意味などないというのは頭で考えることの限界だから。
”意”には神の心がある。
雨に包まれたその場所全体が光り輝いていた。
5月11日(木)
たまには禁じられた手を使うのもよい。ものごとの仕組みがよくわかる。若いときは禁じられているかどうかもお構いなしに手荒いことをよくしたものだが、そういうこともだんだん怖くてできなくなる。でも自分に刺激を与えるにはたまにはいいのだ。そして、やはり後悔する。さすがの経験値で想像を裏切らない後悔。はは。愉快犯。
雲ひとつない空。芝生に寝転んだ。
4月29日(土)
大江健三郎は、ノーベル賞を取ったときのインタビューで、「息子は自分が賞を取ったと思っている。僕はそれでもいいと思ってるんです。僕の作品は息子との共生の中で生まれたものですから。」と語った。大江は、障害を持った息子・林光と出会わなければ、作家として大成しなかっただろうということを自ら認めている。何の因果か、自分の人生には、その目的に見合った必要なものがやってくる。そのときには気づかなくても、人生全体で見たらやはり人も現象もすべて、生きるという目的のために一人一人のうちに用意されたものとしか思えない。それらが交差するのが同時代性の邂逅だろう。もちろん、時代を跨ぐこともあるだろうが、私たちの主な関心は、今目の前にあるものだ。今目の前にある現象に感化され、行動したり、考えたり、作品を生み出したりする。特定の人との共生は、特に影響が大きい。感化されることもさることながら、自分が影響を与える側だということもどこかで認識して生きていかなければいけない、とは思う。
4月28日(金)
感覚は反響や反映をもって得られるものだ。今は何の声もしない。私は正直にあるだけだ。聞こえないものは聞こえない。抗うことはできない。詩や音楽などとうてい手の届かないところにある。いつでもそうだ。手の間から逃げていき、それみたことかと誰かが言うのだ。本当だろうか?なぜ今、誰が、何を、確かなものと言えるだろうか?沈黙は大きな意思表示である。あなたのも、わたしのも。
4月19日(水)
贈る歌も贈る言葉も何もないから、あなたに静寂を贈ります。
今日も健やかであるように。
4月5日(水)
夜になって、雨が降った。雨の音がうれしかった。傘をさして銭湯まで歩く。銭湯にある露天風呂に入りながらまた雨の音をきいていた。
坂本龍一の追悼番組を見ていて、彼が、「音楽の前に音」という話をしていた。我々の周りにあるすべての音を公平な態度で聞いたら、自分がいかに固定された価値観の中に閉じ込められているかがわかると。映画「CODA」の中では自然音や環境音を録音している姿があったのを覚えている。音楽をやる人間こそ、無意識に、または意識的に、聞くべき音と排除すべき音を瞬時に判断して激しく差別する傾向があると思う。それが、フィルターにかけるということだ。
作曲をするためには、音を選ばないといけない。その素材になり得る可能性を狭めてしまうのは、まぎれもなくフィルターをかける行為、もしくはそれ以前の無関心によるものだろう。
音楽を作る者を刺激するのは音楽の前に音(響き)であることは、そうだと思う。そのことを実感として経験しているかどうかが音楽に大きく影響する。
今この部屋で聞こえるのは、雨が屋根に落ちる音、換気扇の音、ワインクーラーのファンの音、パソコンのキーボードを打つ音。
音のない心の声。
3月27日(月)
何も遮るものがなければ遠くまで見通せる。光の射す先の先まで見える。見えたら必ずそこに辿り着ける。信じる力とはそういうものだろう。
3月18日(土)
奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』を読んだ。
本の装丁も文章も小説のような風合いなのだが、エッセイ、というより著者の日記を振り返って構成された、著者自身の人生史のような本だ。そこには、著者が文学を学んだ2000年代初頭のロシアの風景や、ロシアの文学の深い歴史が、小説を読んでいるときの情景描写のように自然に入り込んでいる。著者はロシア文学の専門家であり、学生時代にどんな勉強をしてどんな先生に出会ってどんな学生時代を過ごしたか、という実際的な内容が本の中心なのだが、著者の語り口には感情的なところが一切なく、かわりに、小さな出来事にも、そのときどう感じていたかをとても冷静に詳細に記されている。さすが言葉の人だと思う。著者はロシアでの生活を通して、ロシア文学を通して、言葉の重みというものを知っていくのだが、終わりの方の章に書かれている、恩師とのある印象的なやり取りとそのときの感情をあらわした言葉に、私はとても感動した。「言葉が心を超えないことを証明してしまうような瞬間が人生のどこかにあるからこそ、人はどうしてその瞬間が生まれたのかを少しでも伝えるために、長い長い叙述を、本を、作りだしてきたのだ。」
音楽では、音にならないような場面には間が生まれる。その「間」も受け取り側が耳を傾けてくれれば、音楽の一部となる。しかし不要な瞬間ととらえられれば、ただの白いページである。言葉も、音楽も、人と人が何かを伝え合うために存在する。相互のやりとりがなければ意味をなさないからこそ、伝え方に骨を砕く。
本は好きだ。夢中で読んでしまう本は、書いている人の孤独の中に溶け込むようで、心地がいい。奈倉さんの本はそういう本だった。
3月9日(木)
David Crosbyをずっと聴いている。こんなに美しい音楽があるのだと知ったのは亡くなってから。しかし若い頃と最近のを聴いてみて、最近の、70代からの演奏が凄まじく輝いている。若い頃よりも声にハリがあって、音楽が楽しそうで、これは紛れもなく彼を慕ってサポートしている若いミュージシャンたちとの交流による変化だろう。若い頃にはいろいろあって死にかけたが、敗者復活というか、蘇生したというか、最後に再びパッと咲いて弾けられるのだと、勇気をもらえる。アメリカの音楽文化のすごさは、こういう美しく生命力あるシンガーソングライターの生み出される脈流があることだ。まだまだこの文化は面白いと思う。
3月5日(日)
風は今日は吹きそうにないかな
明日はきっと吹くだろうどこからか
それまでここで本でも読んでいよう
わたしはストランドビースト
風を待つ余裕も悪くない
2月24日(金)
「あなたなら、どこにいたって、孤独を手放さずにいられるわ。」
映画『ちひろさん』でこのセリフに会い、ああそうかと思った。あらがいは、孤独を感じることに対してではなく、本来的な孤独を手放すことに対してなのだ。
映画の登場人物は、それぞれ違った形で孤独を捉え、それらが交差する。主人公ちひろは、みんなの孤独を見つめながら、自分の孤独を時には埋めようとし、時には守ろうとする。もちろんそれらは「孤独」という言葉では表現されない。でも、本質的には人が交わることは、人の孤独が交わっていることなのだと、映画を観て思った。
「孤独」という言葉には、否定的な意味だけではない、人の情動の濃淡や矛盾と関わる含みがある。そのことをよくあらわしている、良いセリフだ。
2月17日(金)
映画「イニシェリン島の精霊(The Banshees of Inisherin)」を観た。
1920年代のアイルランド。パブの一つしかない小さな島での出来事。主人公は突然親友に絶交を告げられる。親友は、これからの人生を無駄話ではなく音楽や静寂のための時間に使いたいと言う。理解できない主人公は、どうしてなんだと問い詰めることしかできない。問い詰められる親友は、話しかけるなら自分がヴァイオリンの弦をおさえる左手の指を一本ずつ切り落とすと言う(!)。小さなコミュニティでは、人や状況から離れることも逃げることもできない。少なくとも誰もがそう思って暮らしている。人生の行く末に対する不安や、失われた大事なものへの執念、そうしたさまざまな駆られる思いに、人の思考は極端な方向へ向かう。
この小さな島は、人間一人一人が持っているテリトリーの大小に置き換えられる。映画の中では、いくつかの対立項があらわれる。敵と味方、知と愚、雄と雌、主と従、生と死、自と他など。人が対立を作り出したとき、思考は制御できない方向へ向かう。対岸の終わらない戦争のように、関係性も、人の精神も分断されてしまう。二項対立の限界を描いているようだった。
この映画を観たのは、能面が出てくると友達に教えられたからだった。主人公は、絶交を告げた親友の家に火をつけ(!!)、燃えさかる炎の中にふたつの面が一瞬あらわれる。これも、男と女の面だった。
二つの対立するものは、形が変われば一対になることができる。あらゆるものは、もとは一つではなかったろうか。
2月13日(木)
クローズアップされる言葉は、たいがい真実を表していない。それはその背後にあるものの身代わりとなって表面化しているだけだから。本来、何か新しいものを人が理解するには長い時間がかかるはずなのだ。それをあたかも理解しているかのような、理解されているかのような、議論を装ったdiscommunicationばかりが目につく。長い時間をかけて、一つ一つのなぜを一緒に考えるような、そういう会話の中には、答えはなくて、個人個人の課題が見つかるはずなのだ。知識ではなく、知性の共有が最も大事なのだ。
2月9日(木)
生い立ちというものに、ずいぶん人は生き方を左右されるのだと思う。大人になって、違う環境で育った周りの人と付き合って、自分の生い立ちは変なのだということに気づく。それは、みんな変なのだけれど、自分の生い立ちに対して否定的な態度を選んでしまった場合、克服するのに長い時間がかかる。本来の自分と作られてきた自分との間に齟齬があるからしんどいという精神状態が生まれるというのがほとんどだと思う。すべては自分の内側のことで、人はただ鏡になって刺激してくれているだけなのだ。私は昔からいろんな人に落ち着いていると言われる。ときには、あなたには感情があるのかと聞く人もいる。あるに決まっている。でも、その見た目の落ち着きというのは、ある意味正しくて、それは私が本来持っている性質であり、私がものを考えたり創ったりする上で必要だから私に備わっているものなのだ。だから、そういう自分の落ち着きに何の抵抗も障害もなく留まっていられる環境にいるとき、一番幸せを感じる。それを受け入れてくれる「人」といられるのは、奇跡のようなものだ。
1月22日(日)
「会話において対等であるというのは、ふたりが共同でつくる約束事が、自分の思い通りにいかない可能性を認めるということだ。それゆえ逆説的にも、自分には理解できない何かを相手は意味しているかもしれないという可能性を認めることでしか、コミュニケーションは、少なくとも対等なそれは、始まらないのだろう。」(三木那由他『言葉の展望台』)
対等であるかどうかというのは、対等でないことを経験して失敗することで、初めてその次に心から望めるものである。対等は仏教でいうところの中道だと思う。関係性自体は現象であるから傾いたり歪んだりするが、その現象に対して極端な意味づけをしないことだ。意味づけをするのは、そうしないと不安だからだ。ジャッジしないというのは中道をいく修行だ。
1月18日(水)
"You are the key."
Wednesdayは学園のkeyであり、時代のkeyであり、彼女の行く場所はすべて彼女がkeyになる宿命に置かれる。これはドラマの設定ではなく、人間を取り巻くこのせかいの法則なのだ。人は皆、自ら赴いて誰かのどこかの扉を開けることになる。危険もあるが、その扉のkeyを持っているのは自分だけなのだ。
1月16日(月)
"Navigating the treacherous shoals of our mother-daughter relationship."
浅瀬は最も危険である。溺れていることにも気づかない。思い切って深いところへ潜ってしまったらいいのだ。
闇を見てしまうWednesdayは強いエネルギーをひきつける特別な能力を持っている。彼女は感情は弱さだと言うが、学園の仲間との交流によって次第に感情の持つ意味を知っていく。
海外ドラマはセリフに意思を持たせる。ときどきハッとさせられる。
2022年
12月31日(土)
静寂だけの森を今日も歩く。聞こえてくるのは自分の声。
赤い月は、自らは光を発することはなく、ただ現象のうちにあるだけだ。
自分を照らしているものが何であるか、森は何も答えない。
今年は3曲の歌を書いた。たった3曲だが、大きな3曲だった。私にとって音楽とは、現象なのだ。それ以上、それ以外のことではない。曲を書くと、自分を取り巻くいろんなものが見える。しかし、ここにそういうふうに書くのは、やはりそれ以上、それ以外の何かだと思っているのかもしれない。
見える景色は日々刻々と変わる。それが現象のうちにいるということだ。
12月24日(土)
いびつな形が生まれるのは、エネルギーの偏りによるものなのだ。
12月18日(日)
いつもはじめは何もない。本当に何もない。まっさらの更地だ。何もないところから何かあるに成る。形なぞはっきりしないが成らせることがわたしの仕事だ。作ることが仕事だと思ってもらっちゃ困る。生きることは解放に向かっていることだということに誰が先に気づくだろうか。
12月8日(木)
寒い日に銭湯に行き、帰り道に体が冷えないように縮こまって、くるりを聴きながらまん丸のお月さまを眺める。完璧なシチュエーションだと思う。
音楽はシチュエーションで聴くものなのだ。
11月30日(水)
対象が大きくなればなるほど、議論というものは雑になる。テレビやインターネットの討論番組を見ていて思う。コメンテーターも学者も、大衆向けに、あらゆることを一般化して言語化する。その言語自体は善でも悪でもない。ただメディアが煽動して善悪という一般化に方向づけようとすることが問題なのだ。ある番組を見ていて途中でしんどくなって消した。
対象を一般化すればするほどそこに費やされる言語が乏しくなる。言語だけではない。芸術表現もそうだろう。
NHKのドキュメンタリー番組で、漫画家の高浜寛が特集されていた。彼女の作品の中に、「人には悩む権利もあるんだよ。あんたにそれを奪う権利はないんだ」というセリフがあった。このセリフは、作家が実生活の経験で得た、小さな単位のモチーフである。語りかける対象は作家自身だろう。印象に残るセリフだ。まさに、俗メディアがやろうとしていることは、個人が悩み考えることを奪うことに繋がりかねない。社会学者が被害を受けた事件は、そのことにも関連するのではないかと思った。
11月28日(月)
ほとんど暮れかかった北の空を見るとき、いつも中原中也の詩を思い出す。
ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。
(いのちの声)
中也は、詩集『山羊の歌』をこの一行で締め括った。
一日の終わり、一生の終わりに求めるのはこういった感覚だ。
佐々木幹郎は、「中原中也という詩人が、自らの感受性が極まるときの姿を、夕空の下で全身が小さなシルエットになるように描き、その身体が宇宙に包まれるようにして存在することを希求した、そのことを象徴する一行である。」と表現している。
自分の等身大というのはなんだろうか。そう思って身の回りのいろんなものと比べてみても、皆、縮尺も形状も違いすぎてわからない。
それから、現れる感情の依拠するところはどこなんだろうか。そう思って身の回りの一つ一つを肯定して除外してみると、何もなくなってしまう。
だから、夕方に空の下に立って自分がシルエットになってみるしかない。
詩人はいつもそうしてきたのだ。
11月21日(月)
「直観が精密な研究と結びつくところでは、直観が精密な研究の歩みを飛躍へと突き動かす」(パウル・クレー)
国立西洋美術館で行われている、「ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」を観た。2019年の暮れにベルリンを訪れたとき、宿を提供してくれた作家のおじさんが、ベルクグリューン美術館を勧めてくれた。美術館の佇まいといい、コレクションの良さといい、とても感動したのを覚えている。そのときはピカソの初期の作品が印象的だったが、今回日本でもう一度コレクションを観て、クレーの作品に感銘を受けた。ああ、クレーはやはり色彩の人だと思った。2018年にスイスのベルンにあるクレー美術館でたくさんのクレー作品に触れたとき、彼が色の研究家だったことを知った。今回そのことを改めてこの目で確かめることができ、しっかり魅了された。音楽も絵画も、やはり生でないと本物の質感はわからない。それと、クレーが色彩をどんなふうに分析していたのかは、観る者がその絵の前に立ち止まらないと絶対に受け取れない。そういった機会を得られて幸運だった。
最近、自分が研究者の端くれに立ち始めたこともあって、どんな手法で研究されているのか、その研究がどこに繋がっていくのか、また結果としてあらわれたものがどんなプロセスを辿ってきているのか、そういうことに興味が湧くようになった。国立西洋美術館の展示の図録に、クレーの作品には「意図的な不確実性」が宿っていると解説されていた。それが、クレーの行った精密な研究と直観が結びついた結果なのだろう。
アーティストと研究者は、どちらも相互の性格を内包していて、どちらにも必要なのは直観と、直観を素材と結びつける力だろう。
久しぶりの上野の駅前は様変わりしていた。
10月17日(月)
事実を明らかにするような明瞭な解釈を示すことはきっと誰にもできて、曖昧さを残してさも明るい解釈を提示することはたぶん誰にも簡単ではないんだと思う。何より先例は後押しになるし、明快な解があるならそれを示す方が圧倒的に楽だ。曖昧さを以て意思をはっきり示すということは、ただ一つのとてもレアな思考の回路、組み合わせのセンスによって成しうる。誰かが先を読もうとしても無理な話だ。人の頭の中のことは出てくるまで未知数だ。ときどき忙しい夢を見て頭の中が整理されることがある。脳の機構はまったくどうなっているんだろう。どうでもいいことを考えながら手を動かし、どうでもいいことをしながら考え事をしたりする。曖昧さは混沌?
9月28日(水)
「飢えては鉄丸を呑み、渇しては銅汁を飲むとかや。地獄の苦しみは無量なり。」
謡曲に描かれる恐ろしい光景だが、飢え渇きは現実には生きる活力だったりする。
飢えてるからこそ生きている実感が湧いたり、渇きを求めて荒行をしたりする人もいる。みんな地獄が好き。
現世で法に触れるような罪を犯しても、みんながみんな地獄に行けるわけじゃないらしいから、地獄に行ける人はそれはそれで選ばれし人なんだろう。
地獄絵図ってどこか楽しそうだし。
9月27日(火)
何かを分析するということは、理解と解釈を重ねることだろう。
養老孟司氏の著書に、理解とは感覚系=入力系、解釈とは運動系=出力系だとあった。つまり、状況把握みたいなものが理解で、実際に身体や心を動かすことが解釈ということだ。
ものの作られる過程にはさまざまなプロセスがあり、小さな破片(素材)から、いくつかの推敲と実践(これも理解と解釈だろうか)の層を重ねていって、最終的にshapeが出来上がる。structureはプロセスである。出来上がったshapeから何か一つ部品を除けてみると、3Dのようにstructureが浮かんでくることがある。つまりプロセスは時系列だから、逆から見ることもできる。そしてこのstructureの存在を実感することが解釈だと思う。
なぜそう思ったかというと、やはり能のことだ。昔の人は演奏家も皆、作品を感覚的に理解し、身体的に演奏で解釈していたのだと、今日理解した。だから私はそれを文章に書いて解釈する。
9月25日(日)
日本人は実はバランス感覚が優れているのではないか。能を見ているとそう思う。数々の時代を超えてきた「伝統」と呼ばれるものの中には、個々に独立した存在である我々の源流を確認できる場面が確かにある。アートにおいても、社会活動においても、私たちが共通して持っているものは、同じ時間というスペースのみで、互いに軸も違えば言語も違う。そういうことを平然と受け入れて、独立した個々が絶妙なバランス感覚を持って、共に生かす。殺さない。混沌として毅然とした世界が原点にあるのではないか。「忖度」なんていう言葉も、本来はそういったバランス感覚のことをいうのではないだろうか。現代の病はバランス感覚の欠如かもしれない。
9月12日(月)
意志は貫かなければ現実にはならない。
楽器の話である。意思のない音は実際の音楽的な音には結びつかない。
鼓は自分の手と皮との接触によって音が鳴る。たったそれだけのことだが、自分の意志を持たない限り、音楽の中で使える音にはならない。
今日、お稽古で先生がとても基本的かつ論理的な説明をされた。こういう説明は好きじゃないと前置きをして。その説明の仕方は、音楽の説明としてはなるべく回避されるべきだということはわかる。でも私には、納得して打ちに行くのにとても助けになった。
どんなに抑えた表現であれ、音楽の中の音はクリアでなければならない。音のクリアさは意思の表れである。この場合の意思とは、今ここで起きていることに対する明快な理解と言っていいだろう。
打ち貫くという強い気持ちが大事なのだ。躊躇してはいけない。
9月11日(日)
日本の消えゆく文化の最後の享受者だと自覚して生きようと思う。
8月31日(水)
今、何を思い、何を考えるか
昨日、何に囚われ、何に苦悶したか
明日、どんな思考が生まれ、どんな形が見えるか
そうだ、わたしはわたしだったのだ
わたしの中にあるのはわたしだけだったのだ
果実はまやかしで、種はほんとう
純粋な種になったとき、わたしは何を書くべきかみつかる
書くこと(音楽・言葉)は、まだ見ぬ世界へつづく掘削
そこまでしなくていい
そこまでしなくていい
いつもあなたでいればいい
8月21日(日)
早朝から車を借りて、琵琶湖へ向かう。大原を抜けて鯖街道を通り、湖北へ。突然「観音の里」という看板が出てきて、国宝の十一面観音があると書いてあるので立ち寄ると、渡岸寺の名で知られる寺だった。白州正子の本で読んだのを思い出した。天平時代に作られた観音様だそうだが、それほど古さを感じない、きれいな面立ちだった。
この一帯は姉川の戦いのときに戦火に見舞われたが、土地の人が仏像を地中に埋めて守ったという。国宝に指定される価値というのは、このことだと思った。それだけの長い時間、良い状態で残っていることは、誰かに守られて大事にされてきたという事実、縁の積み重ねなのである。有形の物も、無形の芸術のようなものも、時間の経過によって消えてゆくのが自然だ。しかし、人間の想いの強さは時代と時代の溝をも埋める。いつ、誰の目に触れ、どんな交感を持つのか。その「もの」の持つエネルギーは時間など悠々と超えてしまう。
8月18日(木)
小栗康平作品を立て続けに観ている。時代の晩期だ、と感じる。川端文学もそうだが、人間の感情の扱い様に、恍惚としたものを感じる。あのような表現はたぶんもうタブーだろうと思う。それにそのように表現できる作家はもういない。
特定の時代に作られた芸術は、その時代が終わると進化が止まる。長い歴史を持つ能も、あるところで進化が止まっている。だから実は伝統は継承していないのかもしれない。それは仕方のないことであり、それでいいのだと思う。
これ以上進めないところまで来たら、模倣を続けるか、新しい扉を開けるか、どちらかである。
『死の棘』の中に、「新しい過去をたくさん作ろう」という台詞があった。これ以上進めなくなった現在に、痛々しく響く言葉だ。
7月30日(土)
人間の精神の病みが現在起きているさまざまな事を引き起こしているとしたら、それを根治するのは難しい。残念ながら、他者が治すことなどできないし、ましてやアートは無力だ。どんな状況を経験したとしても、治せるのは当事者(本人)だけなのだ。
何を望み、何を信じるのか。人間一人一人が心の中でそれを描けたら、きっとそれですべてうまくいく。より具体的に、より明確に。
7月16日(土)
宇宙の法則には誰も逆らうことはできない。会う、会わない、という現象も、誰かの采配によるものではなく、あらかじめ?いや、一瞬一瞬の法則によって決められていく。
ラジオで流れた無名の歌手の歌声が深く心に響いた。CDを買おうかどうか迷っている。手元にあったら中毒になるに決まっている。そしてできることなら生の歌声を先に聴きたいから、少し待ってみようか。ふさわしいタイミングが訪れるまで。
7月8日(金)
「罵倒や嘘やプロパガンダが言論の場を領するようになると、「聞き届けられるべき言葉」と「消え去るべき言葉」を判定する力が言論の場にはあるという確信を人々は失い始める。」(内田樹・安倍元首相銃撃の報に接して)
節度を失った言葉は暴力に値する。そして暴力は別の暴力を生み出す。連鎖が起こる。
自由な言論を作るためには、節度を超えないという確固たる勇気が必要なのだ。
7月7日(木)
風は孤独だが失望しない
今が一時代だということを知っている
あなたが全時代を今の一瞬に見ることを、私は拒絶する
拒絶とは、信じる行為を害うこと
裏と表は本当はどちらが裏でどちらが表なのか
風に問いたい
6月20日(月)
スーツケースが届かない。
という状況はなぜか不安だ。海外の空港ではよくあることだが、日本の宅配便で起こった。しかも他の荷物と一緒に集荷されたのに、スーツケースだけ届かないのだ。
なぜ、スーツケースは迷子になるのだろう。
6月4日(土)
毎日のルーティンは視野を調整してくれる。狭まった視野は判断力を誤らせる。そこには戻らないという自己の意識の領域があるならば、目標を設定するのは簡単だ。ルーティンの中できちんとそこに向かっているかどうかを確認することができる。窮地に立たされたとき、後の自分を救う手立てを実は自ら行っているのだと気づく。点は線を結ぶ目印に過ぎない。
5月1日(日)
ある地点に到達するまでに、とても苦労してさまざまなことを乗り越えなければいけない。でも到達する瞬間はあっという間である。まるで隣の部屋に移動するくらいの感覚だ。啓示を受けた瞬間がそのときであり、昨日と今日、さっきと今が違うのは、経験を経たかどうかの違いである。そして到達したことは覚悟に変わる。そうやって、一歩一歩である。
4月27日(水)
Take your time.
4月19日(火)
あなたの嬉しそうな、わくわくしたような顔を見るのが好き。
たったひとつの理由だけで、繋がっていたいと思う。
3月24日(木)
何においても、そのもののpotentialを知ってさえいれば良い。potentialの幅は、知覚、表現において中心部分に丸みを持たせてくれる。極端な位相にあるものはどちらにしても使えない。そこにあることだけを知っていれば良い。
3月6日(月)
「武力に心を支配されている状態というのは、独裁者と軍国主義者にとって非常に都合の良い、いちばん国民を操りやすい状態だ」
さまざまな言葉が飛び交う中、目に留まった。「武力」を、日常の中にある他者や物に置き換えたらわかりやすい。心を何かに支配させることは、調和のない世界に身を委ねることだ。調和のない世界では、人は攻撃的になる。誰かが誰かを攻撃していい理由などどこにもない。
3月3日(木)
大きな失敗をした。このような失敗は今回が初めてではない。でもなんだかこの失敗が転機な気がする。
私は、私の考える方向性においていつもふさわしい選択をしている。静観することができる。そのような能力があることを知っている。それなのに、そのことをふと信じられなくなった隙に、間違った行動をした。深く反省をした。
落ち込んでいるわけではない。自分の選ぶべき生き方が完全にわかった。
行動は、私にとっては自分の思考を知るために必要なものだ。大事なことは、ふさわしい選択をするに足りる状態にあるのかどうか、静観している自分がそこにいるのかどうか、きちんと向き合うことだ。それくらいのことはもうできるだろう。
3月2日(水)
誰かに自分を変えてもらえるなら、そんなラッキーなことなはい。持ち続けているこだわりは、自分以外に何も影響のないものだ。よって、人とつながる道を塞いでしまう。
自分が信じて選んだ人の影響をありがたく受け取ったらいいのだ。
2月13日(日)
生の感情は、他者に受けとめてもらう必要はない。まず自分自身と共有するものだ。
私がこの2年歌を書いてきたのは、自分との共有の作業だった。歌を書くこと、歌を歌うことで癒されてきた。歌は、過去を掬い上げ、現在を飛び越し、未来を予言する。
歌の曲が10曲に達した。
1月27日(木)
創作は思いもしないところに到達する。はじめに描いていたイメージとは違うところへ自分は連れていかれ、必ずふさわしいところに辿り着く。
形のないものを作ろうとするにはまず行動をすることである。信じてかかることである。行動してから立ち止まり、考え、また行動する。はじめに自然を求めることはできない。自然は発生するものであり成るものだからだ。
信じてかかればよい。
1月9日(日)
プロセスから生まれるノイズがパフォーマンスとしての音楽だと思うし、そういうものでありたい。さまざまな人との関係やさまざまな現象によって起こる刺激や摩擦が音楽になっている。そのことで既に共有物になっていて私個人のものではない。自分の何か(所有物)、なんて存在しないんじゃないだろうか。
1月6日(木)
府中市美術館で開催されている、池内晶子「あるいは、地のちからをあつめて」を観た。
目を凝らしてよく見ないと捉えられない糸の線。光やゆらぎによって浮かぶように物質として認識できる瞬間の悦びは大きい。
糸と空間を見つめる行為を池内晶子の造形によって導かれ、深い思考に誘われたことに感動をおぼえた。
糸は人のいるときには湿気によって緩み沈む。人のいないときにはまた緊張を取り戻すという。張力、重力、基軸、磁気、これら造形を支える要素は、そのまま人と人との関係、人の存在のあり様を支えるものと繋がるように思う。
本来物質も事象もそれほど明瞭に目に見えるものではないのかもしれない。むしろ目に見えない世界の方が広く存在するのかもしれない。糸を繋ぐ、結ぶという行為は、そういった目に見えない存在に対して注意を払い、大切に扱うことなのだろう。
穏やかな心や深い思考は見る力を与えてくれる。見るだけで良い。触れなくても良い。じっと見つめるその行為に、ただただ心が満たされる時間だった。
1月1日(土)
視点を観察すること。
起きていることに関して、自分がどのような視点で見ているのか、きちんと把握すること。
そして気持ちが穏やかでいられたら、それは正しい。
2021年
12月31日(金)
Music is my friend
Understanding, empathic
Forgiving, comforter
A towel to dry tears of sadness
A source for tears of happiness
Liberation and flight
But also a painful thorn
In flesh and soul
「音楽を体内に入れるということは、同化も拒絶も全て受け止めるということだ。それを受け止める強さがなければ、創作や演奏はできない。」
去年の年末にライブを終えた後の感想だ。
今年も、同じように年末にライブをし、同じようにArvo Pärtのこの言葉を思った。音楽と向き合うという行為に対して、さらに真剣に考えた年だった。そしてある一つの結論を得た。不可能であることの事実と、そこから生まれる可能性について、光が見えた気がする。
自分の音楽を愛おしいと思う。また自分の音楽を愛してくれている人を大事に思う。それだけで、それだけの理由で、音楽をすることの立派な動機となる。棘が道を阻むなら、一つ一つ除いていったらいい。
歌えて幸せな一年だった。ありがとう。
悲しいわけじゃない 寂しいわけじゃない
孤独なんてことじゃない
空の青さが眩しすぎて なんだか涙が出る
桜色のときは過ぎ
萌える緑が追い越していく
いつもの道を帰ろうとしたけれど
なぜだか急に恋しくなって この場所に来た
そこにいて いつだって
見守っていてほしい
描いている小さな夢を 叶えられるよう
あの日約束したことを まだ一人覚えている
泣いた顔も ふくれた顔も
懐かしく思い出す
雨音が遠ざかり 雲の間に光る風
もう少しあと少し 両手を伸ばして
あの虹の向こう側に 出逢えるまで
待ってるよと言ってくれた
あなたの微笑みを
どんなときも心の中に 想っているから
そこにいて いつだって
笑っていてほしい
描いている小さな夢を 叶えられるように
見ていてね
(Message / Aiko Kono)
12月28日(火)
幸せ /不幸。喜び/悲しみ。そういった二項対立的な概念に興味がないのかもしれない。少なくとも、簡単に一つの言葉で感情を表現することは不可能だ。言葉で表現するときは、そうありたいという願望が含まれている。それが言霊というものだろう。歌は言霊でできている。未来を予言する。
12月3日(金)
自分の作品/活動に対して、どのような説明ができるのか。
音楽は言葉が必要ないから音楽として成立するのだが、一方では自分の取り組んでいる、取り組んできた過程の正当性、意味づけを、自分で設定しなければ仕方がないのではないか、と思うことがあった。その場合、言葉が必要になる。いろいろなパターンがあるが、自分の場合、複数の素材が同じ場所にあり、それぞれがそれぞれを説明し合うような構造になったら面白いのではないかと思う。
人に評価されたり、評価されなかったり、共有したり、頭の中から外に出なかったり、いろんな現象から自己の感情を通してさまざまなことを知る。
11月20日(土)
経験と経験の接触によって生じる感情のぶつかり合いがある。その感情の圧迫がときに耐え難いものであることがある。しかし、生じた感情は実は真理である。過去の記憶や何かが瞬時に反応するその先を、観察してみる。きっとそこに糸口がある。なぜかわからない。いつも、知りたい、と思う。
11月5日(金)
二週間京都を離れていたら、山の色が変わっていた。空気の匂いが変わっていた。外から帰ってきたときに感じるこの感覚が自分を正常に戻してくれる。
タイミングは突然やってくる。信じて過ごしている時間は蓄積となり、また再会できたときの喜びは大きい。精神とは言えない心の表層部分でヤキモキしているときは、本来の自分とかなりかけ離れている。そう懇々と私に説いてくれる人や自然がある。思い切って、大きく舵を切ることはときには必要だ。輝かしい時代を生きていることは間違いないのだ。信じていればいいのだ。
10月16日(土)
私の作品のテーマは、やはり「感情」なのではないかと思う。感情を客観的に観ることがここ最近の日常的に実践していることではあるが、作品にするとより深層にタッチすることができるし、より客観的に捉えることができる。作品として表現するためのツールは何でもいいという気がしてきた。精神の成長と共に、条件に対するこだわりは無くなっていくのだと思う。
五蘊皆空色不異空空不異色
10月4日(月)
人生の歩みとは、知らないことを知っていく作業、その連続だ。それぞれの段階においての学びがあり理解がある。あのときはそう理解していたけれど、今の理解はこう。そのときに得た感覚はそのときにしかない。だから今は尊いのだ。未熟な自分の感じたことも、全て愛おしいもの。歌い始めて、そういうことに気付いた。表現をするプロセスの中で、様々な疑問が生まれ、それを解決しようと知性が働く。それが本来の我々の仕事なんじゃないだろうか。知性、智慧が人間の感性を深めるのだ。
9月13日(月)
京都生活が知らないうちに身についていたのだと感じる。東京を出てから、「京都には」文化があると信じ込んでいた。もちろんある。でも、東京にもちゃんとあった。久しぶりに江戸の鰻と江戸の能を食し、関西圏にはない「文化」をしっかり感じた。特に能にいたっては、進化した伝統の空気を感じた。同じ伝統芸能と言いながら、関西のそれと江戸のそれとでは質が違う。それぞれに交流をして切磋琢磨して技術を磨いたり新しいものを作っていた時代があった。江戸時代のあの数百年はずいぶん人々の感性が進んだのではないだろうか。ほぼ均一化されたかのように見える現代の人々の暮らしも、細かく見比べたら地域差がかなりある。そういった差異が伝統なのであり、そのわずかな差異を楽しむことが文化であると思う。
久しぶりの上京で、良い舞台を観て感動できたことには感謝だ。京都に移らなかったら私はこういう感動には出会えなかった。どこで何をということではなく、流れているということにnature(自然・本質)がある。人生はどこから始まってどこで終わるのか、本当にわからない。
9月5日(日)
私は気狂いな感情中毒者である。なんて恥ずかしくて言えないが、実際、気持ちのようなものを捉えるとそこから離れられなくなる。心なんて、空で虚で作られたものだと、仏教のいろんな経典に書いてあるし、まったくその通りだと思うが、無い心が作られる場所はものを創るエネルギーの源と同じ場所にある。だから厄介なんだよなぁ。
8月11日(水)
私は必死で何かを伝えようとしているけど、一体何を?
言葉でも、音楽でも、何をそんなに伝えなければいけないのだろう。
7月25日(日)
反省、感謝の日々。すみません。ありがとう。
7月20日(火)
人は、一度の人生の中で何度も生きることができる。何度も生まれ変わることができる。一生が一連続かと思えば、そうでもない。もちろん、過去に行ったことは今に影響している。しかし行為と意識を切り離すこともできる。
何度か生まれ変わるうちに、だんだんと心地よい自分を見つけていくのだろう。それが成長というものだ。そして何度も生まれ変わると、どんどん若返るのだ。
過去に人にしてもらったことを、今、これから、誰かに返していけばいいんじゃないか。そうしたら、一応人生の整合性はつくだろう。
7月17日(土)
祇園祭の時期がやってきた。今年も巡行は中止だが、いくつかの鉾が通りに立てられていた。
人は比較的少なく、鉾をじっくり見られるのはいい。
前祭は終わり、鉾を解体する現場に出会した。はっぴを着た男たちが、順番に木を引き抜いたり屋根を外したり、あれだけ精巧に作られたものをまたひとつひとつ解いていく。木の組み方や縄の締め方など、さまざまな技術が生きている。祭が中止になると、このような技術の伝承も止まってしまう。
「伝統」と名称づけられた、人々の営み。この地に根付いているものはいったい何だろうと、最近思う。京都の奥まった部分は私にはよくわからない。たぶん私はいつまでも観光客気分で、すたすたと一人この街を歩くのだろう。
6月28日(月)
社会生活の中で、人々が対等であるということは大切なことである。対等でなければ、意見を交わす意味がない。私がヨーロッパに行ったときに、人々と接して心地が良かったのが、誰もが対等であるという姿勢が基本的に社会の中に感じられたからである。差別がない、立場が平等であるのとは違う。どのような立場の人も、どのような状況の人も、同じ場所に居合わせたら対等に意見を言える、言わなければいけないという空気感だ。
ヨーロッパに行って最初に感動したことは、同じ音楽家の仲間や尊敬するアーティストが、私が日本で作った小さな作品を、私という個人が創作したという点でリスペクトしてくれたことだ。まず個人の視点で、私が何かアクションを起こしたことを評価してくれたことだ。私にとって評価とは、対等な視座で作品なり個人を見てもらえることだ。そういう環境があればこそ、臆することなく意見が言えたり表現ができるのだと思う。土壌づくりからやるのではやはり人生に時間が足りない。やりたいことを全てやり終えるには、よそ見をしないことしかないのかもしれない。
6月13日(日)
迷ったとき、捨てるべきものは何か、と問うた結果、「過去の自分の考え」という答えに至った。
これはきっと正しい。
5月30日(日)
学問の楽しさとは、わかりかけた段階にある。もっとその先を知りたいという欲求にある。
この段階が一番楽しい。導いてくれる師の存在も有難い。
今は、学びにじっくりと時間をかけてもいいと思える。それだけの価値はある。
5月24日(月)
孤独やさみしさとは、心の層の比較的浅い部分に存在するのではないだろうか。
外的刺激から影響を受けやすい層にあり、わりに簡単に表面にあらわれてくる。
創作などを通して、自分の奥深い場所に完全に入り込むと、そこに孤独やさみしさはない。何の外界の音はせず、誰もいないが、不思議と、そこは安全な場所だという無意識の感覚に包まれる。そしてそこから外の世界に出ても、それほど違和感を感じない。本当の集中とは、いわばセルフセラピーのようなことをしているのだ。
日常生活の中で、孤独やさみしさを感じることはしばしばある。その度合いが、自己の集中の深さを測るバロメーターになる。どんな刺激にも打たれない強さを持て、とは私は自分に対して思わない。小さな刺激にも敏感でいることが表現者として大切な感性でもあるからだ。しかし、孤独やさみしさの層に何の覆いもなく、野ざらしにしておくことは危険極まりない。どこかで気づかなければいけない。危険な信号を察知して防御しなければいけない。
自分に必要なある一定の量、一定の期間、深い層に自分を追いやる。私の場合は音楽の力を借りる。音楽でだめなときは別の何かを試してみる。そのようなことを意識的にやらなければ、自分の意識が表層にばかりいき、心の健康が保てないことに気づいた。
焦りや怒りや嫉妬や、そういった感情は、湧き上がるとはけ口が必要になる。もしも愛する人にそのような感情の言葉を発しなければいけなくなったら辛いことだ。自分の中で解決できるのならそれが一番良い。
深く集中することは心の健康にも良いし、何よりそこは楽園である。
5月19日(水)
30代半ばから大きな旅をするようになった。二ヶ月、三ヶ月と違う土地に滞在すると、さまざまなことがある。いろんな人に会う。人間は皆同じと言えども、やはり価値観の違いに驚くことがたくさんある。そういった中で、自分は何を考えるのか、何を欲するのか、自ら感じて捉えることが私には重要だ。ときどきふと、海の向こうで出会った人に言われた言葉を思い出したりすることがある。
海の向こう。「今」より過去、「今」より未来は、すべて海の向こうである。
誰にも何もわからない世界が、向こう側にはあるのだ。
雨音が遠ざかり 雲の間に光る風
もう少し あと少し
両手をのばして
あの虹の向こう側に出逢えるまで
待ってるよと言ってくれた
あなたの微笑みを
どんなときも 心の中に想っているから
5月9日(日)
鳥のさえずり、日のやわらかさ、木々の集まった匂い、森が雨を吸った匂い、階下のギターを爪弾く音、銭湯に桶の響く音。陽気の良い初夏、窓を開けると好きな音や匂いがある。散歩に出れば、朝も昼も夜も、美しい景色がいつもそこにある。
今いるこの場所が気に入っている。
4月29日(木)
モーツァルトの生きていた時代は、ピアノの変遷の時代だった。弦を弾くタイプのチェンバロやクラヴィコードがまだ主流で、ハンマー式のフォルテピアノが出始め、ヨーロッパで少しずつ知れ渡るようになってきた、そういう過渡期だった。モーツァルトの初期にはまだウィーンにフォルテピアノはなかったが、旅先でフォルテピアノに触れているモーツァルトは、この新しいピアノを意識してピアノソナタを書いていた痕跡がある。
今のピアノは7オクターブちょっとの音域があるが、、当時のフォルテピアノは5オクターブしかなかった。モーツァルトは初期のピアノソナタの中で、その最高音であるFを使っている。今のピアノで弾いたら、その上にまだ2オクターブくらいは余裕があるが、当時の感覚としてはかなり挑戦的な高い音という認識だっただろう。
私は、大学の講義でこの話を聞いたとき、ああ、モーツァルトはやはり天才なのだ、と思った。なぜなら、モーツァルトは決してこの音を最高音だとは思っていなかったのではないだろうか。物理的にはそのときの最高音ということにはなるが、まだ本格的に触っていないピアノフォルテを想定して書いた上に、その後のピアノの進化を見越して、この最高音Fは未来から見たら経過音の一つに過ぎないということをわかっていたのではないだろうか。モーツァルトは、今ある道具に縛られることなく、少し先の空間から音楽を書いていたのだと、私は思う。
そういえば、オーケストラの楽器の中では比較的新しいクラリネットという楽器を始めに用いたのもモーツァルトだという。彼は、そういった楽器の変遷の時代を選んで、未来からやってきた天才作曲家なのだ。というふうにあえて考えて、もう一度彼の作品を鑑賞し直してみたい。
4月13日(火)
多くの言葉を重ねていったら、いずれ音楽は元素に帰るのではなかろうか。
Nik Bärtschの新譜『Entendre』を聴いて思った。
彼の初期の作品と比べると、作曲のロジックは変わっていないのに、そこに説明的な言葉は一切感じられず、音ととなる素材しか存在していない。ただの音楽である。
「ただの」。芸術は突き詰めれば「ただの」何かでしかなくなる。そこへたどり着くまでには、多くの言葉を吐き出す作業をしなければならず、膨大な時間を要する。
自ら糸を生成し、複雑な紋様を織り上げ、それを解いていく、そういうことを繰り返すしか、シンプルになる方法はないのだろう。
3月28日(日)
一昨日アウノウンパーラーでライブをした。自分の段階が進んでいることを感じた。舞台でしていることは、自分の体と精神と思考の変化の確認と、積極的な働きかけをする意味でその場の空気を揺らすことだ。パフォーマンスはとてもシンプルな構造でいいのだと思った。
本当に試したいことは、もっともっと先の段階にある。
3月19日(金)
今日はずっと人と会っていた。矢継ぎ早に何人もの人に会って話して聞いてを繰り返していた。
自分がフラットな状態で人と話していると、まずは自分の今の状態がわかる。そして相手の考えていることもおおよそわかる。私は、そのとき思ったことがあれば言う。何も思わなければ何も言わない。
会話というのは面白い。言葉は、日本人なら皆共通して日本語を喋るのに、同じ言葉を使っても意図することはそれぞれ違う。表情にも表れる。
私は、言葉の裏側にあるものを見るのが好きだ。言葉などではとうてい表せない感情の層が人にはある。それを遠くから見ることも関係性であるし、介入することも関係性である。距離では測れない波動のようなもので人はつながっている。
今日のいくつかの会話の中で、これから実践してみようと思うことが出てきた。ありがたかった。
3月15日(月)
「remove 削ぐこと」と「create, form 形成されること」は同義である。
侵食によって削られた岩や砂はあらたな形となって塔やアーチや波形に変わる。
マイナスはプラスにchangeする。
2019年5月のメモより。何か写真展を見た感想だろうか。
3月14日(日)
アーティストが社会の中で何ができるのかということをいつも考えている。
3月4日の日記に書いた武満の言葉「自分が世界に意味づけを行う」ということを、だいぶ前に考えたことがあったことを、古い自分の手帳のメモを見て知った。
できることは限られている。本当に、ごくごくわずかなことしかできない。だからそのわずかなことに精度と深度を追求するしかないのだ。
生きづらさを感じるときの原因はそこにあり、満たされ得る可能性はそこにしかない。
私は自分の冷静な観察眼を信じている。誰よりも信頼している。
3月6日(土)
いつも行く馴染みの店のけったいなグランドピアノを、さも美しくまろやかな音で弾くピアニストに会った。このピアノはこんな音を持っていたのかと、本来の性格を知って、ああ、よかったと思った。
どうしてあんな音が出せるのだろうと思って彼と話をしていて行き着いたのは、やはり良い音を聴く経験がたくさんあるかどうか、だった。間近で空気の振動とともに良い音、良い音楽の経験をすることがミュージシャンの財産となる。
空気が振れた中で経験することが最も重要だ。
3月4日(木)
「表現のはじめは、まず、表現することに耐えられない自分を確認することなのではないか−−。表現とは、世界が自分を意味づけるのではなくて、自分が世界に意味づけを行うことだ。そうすることで、世界のなかにある自分を確かめてみる。
(中略)
表現することとは、けっして、自分と他を区別することではない。
世界はいつでも自分の傍にありながら、気附く時には遠くにある。だから世界を喚ぶには、自分に呼びかける他にはない。感覚のあざむきがちな働きかけを避けて自分の坑道を降りることだ。その道だけが世界の豊かさに通じるものなのだから。」
(『武満徹著作集1』新潮社 より抜粋)
長いことずっと悩んでいたことがある。音楽との関わり方だ。
自分の創る音楽が自分であるとするならば、自分と世界との交流において、いつも、あるところまで行くと、突然断絶されてしまう。そして激しく孤独に陥り、音楽そのものが嫌になってしまう。きっとものを創る人間は似たような経験があるだろう。
長いこと悩んでいながら、これまでそこに真剣に向き合って来なかった。自分の貧弱さ故か、才能の乏しさ故か、くらいにしか考えていなかった。しかし、いよいよ自分の中のいろいろなものが私の無頓着によって蝕まれそうなので、その問題と真剣に向き合うことにした。
そう考えていた日中の図書館でこの文章を見つけた。何という出会いだろう。
2月23日(火)
この世界は、様々な人の人生の混じり合いによって成っている。至るところで化学反応が起きている。それを楽しまなくちゃ、生き損である。自分のやったこと、起こした行動が、誰かのためになっていることもある。そういう意味では、一つ一つの行動は非常に重要なのだ。ある一つの態度を決めて、現生での仕事を成し遂げようではないか。
2月19日(金)
辻本佳のパフォーマンス『洞』を観る。大いに刺激を受けた。
彼の表現のツールである身体は、最もこの地球において重いものである。その身体はどのような動機で動き始めるのかを問うたパフォーマンスだった。
まず始めに、この生態系の中で自分がどの位置にいるかを確かめるために、様々な音を出してみる。そして共鳴した対象に向かって、身体は動き始める。そこまでの過程には、人工重力とでもいうような、エネルギーの生成が必要である。生み出しては廃棄する行為を繰り返して後、満ちたエネルギーが身体を動かす。いわば身体の動きは副次的なのだ。つまり、動機のないアクションは意味を持たないということだ。
矛盾するようだが、行為に意味を持たせるためにエネルギーの生成がある。そこまでに至る思索がある。
始まりを探ることは、未来に向かうことである。
1月20日(水)
"witness"
目撃者、証人。
自分の人生において、良きwitnessを得ることは非常に重要である。以前は「理解者」を求めていたが、必ずしもそうでなくても良いと思うようになった。自分のしていること、起こす行動に関しては、自分の基準によってある程度信用をしている。それをただどこかで目撃してくれている人が一人でも二人でもいたら、そのごく個人的なものが、共有物に変わる。意味や評価などなくてもいい。形のないものは、誰かと共有することで確固たる目に見える命になるのだ。そしてその命は日々変化する。私が作っているものはそういうものだ。
「命は大切だからこそつなぐものではなく、一人一人が完結させるものだ」(詩人・作家 東田直樹)
ゆるやかに新年が始まった。新年最初に開けたワインが素晴らしくて感動した。こうでなくっちゃね。
2020年
12月30日(水)
何も、ひとりではできっこない。
いろんな才能を持った人が集まって、楽しいことが生まれる。
その中で自分の能力を最大限発揮するべきだ。
そのために生まれてきたのだから。
12月27日(日)Music is my friend
Understanding, empathic
Forgiving, comforter
A towel to dry tears of sadness
A source for tears of happiness
Liberation and flight
But also a painful thorn
In flesh and soul
昨日、今年最後のライブを終えた。Arvo Pärtのこの言葉を思い出した。
音楽を体内に入れるということは、同化も拒絶も全て受け止めるということだ。
それを受け止める強さがなければ、創作や演奏はできない。
しかし、人間は日々生まれ成長する。存在を肯定する強さも、信じられない弱さも、すべて自然なことである。だから何も嘆く必要はないのだ。
そのときそのときの感情を、音と言葉に残し、高らかに歌い上げればよい。
そういったある種の生きるための知恵を与えてもらった気がする。
ありがとう、と伝えたい。
11月27日(金)車を借りて琵琶湖を周遊する。琵琶湖は意外と大きくて、本日の走行距離243キロ。よく走った。
今日は何もしない日と決めて、一日ぼんやりしながら湖岸をのんびり運転する。
行きたかったワイナリーに行って、新蕎麦を食べ、友達に会いに行き、実りある話をして、家に帰ってワインを飲みながら書きかけの歌をほぼ完成させる。
なんて良い日なのだろう。
深夜(朝)4時。さあ、眼を閉じるとするか。
11月22日(日)なんだかんだ言って、京都に来る前の5年間東京で一人暮らししていたときが懐かしい。
東向きの窓から見える朝焼けが毎日きれいだったことだけを思い出す。
11月21日(土)私は変化を恐れない。自分が変わることを躊躇しない。
真に自由を求めるならば、それは最低条件だろう。
何を自分の行動が制限されることがあるだろうか。
何かを遠ざけることは、自分を守ることに外ならない。
私は、どこにも留まりたくない。
ただ大切なものを心の深いところでじんわりとその体温を感じて生きていきたい。
11月11日(水)人生での重要なハプニングは、忘れられないものに出会うことだろう。
あそこで食べたあの味が忘れられない、あの人の言ったあの言葉が忘れられない、など、印象的な事柄に出会うことでそのあとの人生がガラリと変わる。
作曲もそうだ。記憶に残るメロディーやピアノのフレーズ、ハーモニーに出会うと、それは確実に曲になる。歌を作り始めて、自分の感情やそこから生まれてくる言葉も、大事な出会いのハプニングの一つに加わった。
生まれてから死ぬまで、いや、それ以前のことも全て、事象は繋がっているのだ。
10月20日(火)我師の発言。
「冷めて美味しくないものは食べるべきではない」
熱々の湯気の立ったものはまやかしだという。例えば、冷えたラーメンはスープを吸ってふにゃふにゃになったただの小麦粉。
私は人間に例えてこう言った。「恋愛もそうでしょうか。恋が冷めてつまらないような相手とは始めから付き合うべきではない」
ふうむ、とそれで話は終わった。
師の言うことはいつも面白いが極論である。何を目的にそのものを味わうかによる。熱々の恋愛を楽しみたいのか、長く付き合える相手が欲しいのか。目的を見失ったら迷路のようなまやかしに会うだろう。
10月4日(日)毎年春に開催されているKyotographieは秋に延期になった。Kyotographieは、京都ならではの古民家や非公開の寺、閉鎖した工場などが展示会場となり、国内外のアーティストの写真がユニークな展示で見ることができる。
今年もパスポートを購入した。
建仁寺両足院で展示されていた外山亮介の展示を見た。光をガラスに閉じ込めるアンブロタイプという技法で像が浮かび上がってくる。外山は、「(試しに自らを撮影してみて)像は不鮮明だったが、想いや迷いを含んだ目がこちらを見つめてくる。」と、この技法が表現したい方法に適していると判断した。さらに、人物を等身大で撮るために、自作の巨大カメラを使用した。ぼんやりとした中にその瞬間だけに存在する真実が感じられて、感動した。真実が真実であるのは一瞬でしかない。時間の経過は容赦がない。写真は、その一瞬を収める芸術であり、その真実が肯定されることで作品となる。
表現は、いつでも自分の想いが優先されなければならない。手段がなければ、自分で作るしかない。自分の前例がないように、自分の実現したいことの前例もない。誰もが、新しい道を切り拓いている。
8月29日(土)昨日、久しぶりに人前で演奏をした。6名のお客さんの前で、ピアノと歌とで、たった一人でステージに立った。私の音楽人生の中で、おそらく大切な節目となるライブの一つだった。
まず、歌をうたったこと。4月から歌を作り始めて、5曲のオリジナル曲が生まれた。作詞は全く初めて。
人前で演奏することはほぼ二年ぶり。そして、ずっとやりたかったソロライブ。人と演奏すること、アンサンブルは大好きだが、一人になってできること、自由になれることがあるのではないかとずっと思っていたから、歌を組み込むことで、それが実感できたことは大きな収穫だった。
何より、聴いてくれたお客さんがとても喜んで帰っていったのが、とても励みになった。歌をうたうということは、楽器を演奏するだけとは訳が違う。すごい世界だ。
機会を与えてくれた縁に感謝。
8月8日(土)「タントラによれば、生物であれ無生物であれ、すべてのものはある特定の周波数をもった震動音だということができる。音と形は、互いに関連していて、すべての形はある強さをもった震動音であって、すべての音には、それぞれ目に見える形が対応している。つまり音というのは形の反映であり、形は音から生まれたものである。音を根源として、音によってあらわれる動的(ダイナミック)な力を図形化したのが「ヤントラ」である」(アジット・ムケルジー著、松長有慶訳『タントラ 東洋の知恵』より)
すべてのものはある周波数を持っていて、互いに反応し合ってこの宇宙はできているのだろう。何一つ、単体で存在するものはないのだ。
だからこそ、本物(響き合うもの)と出会ったとき、一瞬、出会えたことに狂喜乱舞する。だが、そのあとすぐに深い静寂に誘われる。そのものの肌触りや風合いをじっと見ているうち、自分自身がその周波数と溶け合い、宇宙を形作っていることを無意識に実感するのだ。響き合うものに直接触れることは、人間の存在の根源を知ることである。
私が旅をするのも、音楽をするのも、それを知るためだろう。
8月3日(月)
「空海は一人の人格の中に、俗と非俗という一見相反する二面をあわせもち、それらをみごとに両立させた不思議な人物だということができる。現代人の常識からすれば、俗と非俗の両面は二律背反とみて当然のことであろう。近代人の人物評は、ややもすれば聖か俗か一方的に断定してしまいがちである。しかしよく考えてみると、このような評価はきわめて危険だといわねばならない。人間は聖俗両面を、多少にかかわらずともに備えているからである。」(松長有慶著『密教』岩波新書)
空海は、民衆のための社会活動に力を入れながら、一方で定期的に山に籠り禅定に入ることを辞めず、その間はいかなる事情があっても山から降りなかったという。禅定は修行でもあり、自分を癒す行為でもあるのだろう。
高僧であっても、凡夫であっても、社会との関わりと、個人の精神の問題は別のことである。公私、自他、自分と内側の自分、それらをどこかで線を引かなければ本来の目的が見えてこない。
仏教では、欲望(煩悩)をどう捉えるかというのが一つのテーマである。素敵な洋服が欲しいとか、美味しいものが食べたいとかいうのも欲望だし、何かの使命感に駆られて社会的活動をするのも欲望であろう。ミュージシャンが良い例だ。
その欲望がどのような性質のものなのか、社会の中にずっといるとわからなくなる。もっと深層の本地の部分を知るために、禅定があり、創作がある。
複数のことをぼんやりと頭に浮かべながら山籠りをしていると、ふっと視界が開けるときがある。自分の思考の方向転換ができたときである。そのようなときが山を降りるタイミングであろう。
(私は常が山籠りのような生活だから、街に出て人のいるところに行くことが下山にあたる)
自らの選択で、どちらにも容易くシフトできるような社会が望ましい。
社会は、人の営みを制限するだけなのか。
7月21日(火)
「状態」について話す。
現在の自分の状態と、社会や他者の状態が一致しない、乖離している場合、ストレスや歪みが生まれる。それをどのように修正したらいいか。
自分の状態が思考とつながっていれば、変えることはできる。自分の状態が自分の性質と関わっている場合、変えることは難しい。そのような場合は、選択するしかない。自分の状態に無理の生じない環境に身を置くこと。そのために何かを捨てることも必要かもしれない。物事は天秤にかけられ、取捨選択されていく。いかにしても、必要なものはおのずと残るのだろう。
自分の自分に対しての真剣さや力みは、ときに誰かに茶化してもらうくらいのほうがいい。人と話すことの有難さが身に沁みる。
7月9日(木)
文章を書くことは好きだ。必要に迫られて書くこともあるし、書きたいという欲求に駆られて書くこともあるし、意識して日記や雑記を書くようにもしている。このDiaryのように、思いついたことをできるだけ端的に正直に書く場合と、人に伝えるためにわかりやすく論理的に書く場合と、自分だけにわかればいい殴り書きをする場合とあり、どれも自分にとっては大切だ。中でも殴り書きはけっこう役に立つ。そのときの感情やアイディアはそのときにしか存在しないもので、後で思い出そうと思っても思い出せない。これは人とのコミュニケーションも同じで、そのとき思ったことをその場で言うことの価値を最近強く感じる。情動に押されて発せられた言葉は、生きている。そう、ライブ感とでも言えばいいだろうか。その場所、その空気の中で人と共有したことは忘れないものだ。それは、人の話を聞いていても思う。人が楽しそうに話している顔を見るのが好きだ。そういう瞬間瞬間は、私にとってかけがえのないものであり、特に物づくりをする人間にとって重要である。
7月4日(日)
私は「未だ見ぬ何か」にいつも興味をそそられる。音楽も、人間関係も、旅も、全て、未だ見ぬものを作り出す行為だ。それらに対して、受け身であることはない。起きることに対しては、全て受け止める覚悟ではあるが、何かを待つということが苦手だ。
私の言葉は、様々な形に変容する。一つではない。人間の感情や想像力や執着や強い思いは、別の形になりたがっている。決してひと所には留まらず、浮遊し着地点を探している。創作とは、そのような行き場のない言葉をしっかりと捉え、どこかに帰着させることではないだろうか。
「未だ見ぬ何か」を見るための道は常に半ばである。伴走者もいない。自分自身が浮遊者なのだ。
6月20日(土)
Pat Methenyをよく聴いている。彼を作曲家、演奏家としてとても尊敬している。まだ生では演奏を聴いたことがないが、CDで聴いていると、ある瞬間、ギュッと胸をつかまれ、持っていかれる。そういう瞬間を作り出す能力のある人だ。
彼は18歳くらいのときにバークリー音楽院で教え始めたというのだから、類稀な才能の持ち主だが、とても多作家で、これまでに何枚のアルバムが出ているのだろうか。作品をそれだけ生み出せるというのは、湧き出るエネルギーを音楽に全て還元している証拠だと思う。
エネルギーは、消費しなければどんどん死んでいく。日々生まれては死んでいるのだ。だから、表現者はエネルギーの行く先を常に求めていて、一瞬でも滞ると息苦しくなる。そういう生き物だ。そういう生き物である自分とどう付き合うか、とても、とても難しい。
6月18日(木)
この頃よく、大島龍彦先生のことを想う。
先生の口癖は、「僕の人生どこを切っても面白い」だった。その反面、研究は孤独だとも言っていた。研究や創作は、楽しいからいくらでも夢中になれるし、夢中になればなるほど孤独になる。先生の気持ちはよく理解できる。
先生は晩年(私が先生と知り合って親しくさせてもらっていた時間は、結局晩年になってしまった)、智恵子抄に関する勉強会を開いてくれていた。東京から名古屋までよく通ったものだ。孤独な研究だからこそ、そのようにオープンに、私たちにシェアしてくれていたのだと思う。勉強会で話す先生は本当に生き生きとしていた。
人生の中で大事なmentorが何人かいる。そういう人たちは、一緒にいるだけで何か特別な空気に満たされる。ちょうど釈迦の教えを聞いている弟子の気分だろうか。満たされることは、幸せなのだ。今、あらためて学びに帰って、そのことを感じる。
今なら龍彦先生と話したいことがもっとある。一緒にお酒を飲みたい。
6月15日(月)
in a summer mood
微炭酸のワイン
即席のチキンカレー
Pat Metheny
夏の夕暮れどきの気怠い風を味わうのに
最高の組み合わせ
6月14日(日)
この時期、スーパーで実山椒をよく見かける。緑色の生のままの実だ。京都といえばちりめん山椒はお土産の代表だし、お蕎麦屋さんに入れば七味と一緒に必ず粉山椒が置いてあるし、この実山椒も京都へ来てから知った。今年は初めて生の実を買って、醤油と味噌に漬けてみた。枝から一つ一つ実を取る作業をした後の手についた香りが何ともいえない。山椒の若葉である木の芽は、春の筍料理の上にちょこんと乗っていたりして、それもまた官能的な芳しさがある。こういう得体の知れない植物を料理に使ったり保存食にしてしまう日本人の感性たるや。実が上手に漬かっていたら、今度はどんな料理に使うか、それも楽しみだ。
じめじめとした梅雨期、意外に楽しみは多い。蛍、紫陽花、蓮、蛙の鳴き声、茂る緑、雨音、山が雨を吸った匂い。人間の憂鬱とは裏腹に、植物や小さな生き物は活発になる。特に自然の近くにいると、そういう躍動を毎日感じながら暮らしていけるから、とてもラッキーなのだ。
小さな生命体のそのときどきの"mode"を観察していると面白い。自分も、自分の"mode"に従順でありたいと思う。
6月8日(月)
断片の中にいるときの自分は、次の何かを待っている。
意識が内面に向かおうとしているのを感じる。
断片を連続に変え、ある一定の温度のところでしばらく留まりたい。
そう望んでいる自分の声を、まっすぐに聞くべきだろう。
決して誰にも犯される領域ではない。
5月26日(火)
'This tiny coronavirus has showed us in a painful way that humanity is a single organism and human existence is possible only in relation to other living beings. The notion of "relationship" should be understood as a maxim, as the ability to love. Although this is truly a high standard, maybe even too high for a human being.'
(Arvo Pärt / interviewed by Estonian World)
我々はこの宇宙の有機体の一員である。
鳥も、魚も、水も、菌も、狂った人も、正常な人も、皆何らの変わりはない。
皆変わりなく、他と共存しなければ生きていけないという条件を持っている。
そして人間だけは、さらに生きるために「理由」を付加しなければいけないということになっている。もしも理由を必要とするなら、「愛するため」が最もシンプルかもしれない。自分のことも、他も。
Pärtの言う'The notion of "relationship" should be understood as the maxim, as the ability to love"とはそういうことではないかと理解する。
人間社会という場所で、有機体としての自分を全うするためには、少しの知恵が必要である。そのことに日々頭を悩ませているのだ。
5月19日(火)
他はいかなるものも異物である。それが自分の中に入り込もうとするとき、入り込んだとき、何らかの反応を起こすのは自然現象だ。他者に対する感情は、自分の体内で起こっている反応の現れである。好きという感情も嫌いという感情も同じ現象である。異物を排除しようとすることも、心の現象を解明しようとすることも無意味だ。
空っぽの体になって、ただ耳を澄ましてみる。
5月13日(水)
'No matter how much “noise” there was around him, Miles always came from silence, the notes existing in a purity all their own (the opposite of a vacuum, which is most of minimalism). Miles proved the impotency of the “technicians”, the potency of pure desire. '
「たとえいかに多くの”ノイズ”が彼のまわりをとりまいていたとしても、マイルスはいつも沈黙から生まれてきた。沈黙があるからこそ、彼の音は純粋さの中でそれら自身のために存在しているのだ(沈黙は空虚の対極にあり、たいていのミニマリズムは空虚である)。マイルスは”テクニシャン”の無力を証明し、純粋な欲望の力(潜在力)を証明したのだ。」
"Bye Bye Blackbird" /Keith Jarrett, Gary Peacock, Jack DeJohnette (ECM Records)
(日本語訳はユニバーサルミュージック盤より)
キース・ジャレットのアルバムの中で好きな一枚に、マイルスに捧げたこの"Bye Bye Blackbird"がある。キースの他のアルバムと比べると異質で、キース節ではあるが、全体に膜を張ったような静けさがある。演奏している3人のミュージシャンはマイルスグループに在籍していたことがある。
このライナーノーツを読んで、納得した。マイルスに捧げるアルバムとして、マイルスの「静けさ」を彼らのリスペクトの焦点としたアルバムだったのだ。
重要な点は、完全なる純粋な沈黙(その中には多くの音が含まれている)によって、表現者自身の本来の欲望を引きだせることをマイルスが証明したと言っているところだ。逆を言えば、欲望にピュアであればあるほど、沈黙がやってくるのだ。
欲望にピュアでいることは容易ではない。しかし、そのような方向に思考を置いて常に暮らしていれば、長い時間をかけて不要なものを取り払い、元の土壌に戻すことはできるのではないだろうか。そのときには、すでに世界は沈黙(多くの言葉や思想が含まれた)に包まれている。
そこへ向かうタッチストーン(試金石)として、マイルスの音楽があり、過去の芸術があり、正しい欲望を示してくれる存在がある。
5月3日(日)
たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
佛の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり
(親鸞「讃阿弥陀仏偈和讃」第29首)
阿弥陀仏は、法蔵菩薩という修行時代に、本願をおこしたという。本願がおこるとは、人の心の中に菩薩心がおこること、普通、仏道を求める場合には、菩薩心をおこすことが先であるといわれる。
自分は特別な仏教信者ではないが、現世、現実の中で、自分の人生観においての「悟りを開く」ということには興味がある。自分の欲や意識とは別のところで、物事を見てみたい、それが可能なのかどうか、確かめてみたい。
そして、願わくば、不退の境地に留まりたい。
4月22日(水)
一月虚空に処する 影千万の水に分かつなり
(空海)
千万の水を照らす月は、その存在自体何にも揺るがされることがない。その安心感に包まれることは、母親の腕の中で子守唄を歌ってもらっているようだ。
変わらないものがあって良い。何も定義せず、ただそこに存在していることだけを感じられたら、それで良い。
4月7日(火)
「移動の自由、学習の自由、表現の自由、思想・良心の自由といった、私たちが戦後の憲法下で大切に守ってきたものを一時的にせよ手放したことをお互いに自覚して過ごすことが必要だ。命と自由をトレードオフするのではなく、どちらも守る闘いが、今、始まっている」(4月7日京都新聞 山田健太氏によるコラム)
失ったものは二度と元には戻らない。
空洞と化したものはその通り受け止めるしかない。
しかし、土壌がだめにならなければまた新しい芽が生えてくるものだ。
変化をどう受け止め、いかに冷静に観察するか。
人々が感性を失わないことだけが、芸術の命脈を保つ綱となるだろう。
3月11日(水)
寂しさを胸に留め
愛しさを葬る
草の上に寝転び
孤独と自由を同時に謳歌するのだ
長い旅をしてきたその声が
私を包む
2月4日(火)
ヨーロッパのいろんな国を見るたび、自分が普段どのような態度で自分に向かい、社会と接しているか考えさせられる。なぜなら、日本にいるときの自分の価値観はここではほとんど意味を持たないからだ。そう、環境が変われば価値観は変わらざるを得ない。ただどこにいても自分を認めることは大切だ。ヨーロッパの人は、個々人がとても独立している。そして常に他者と共有する。独立と共有のバランスがとても優れている。時折日本を出ると、学ぶことが多い。
今回のヨーロッパ滞在では、自分が音楽をすることからほとんど離れていた。それは良かったかもしれない。ここ10年の自分の行動はどうだったかと振り返りつつ、新たな10年の進化を自分に約束した。英語で"make progress"と言うが、進化は作り出さないと起こらないのだ。行動することから全ては始まる。
旅も終盤。さあどんなサプライズが待っているか。
1月13日(月)
過去の過ち 海へ
思い出ごと 海へ
あこがれとジレンマだけ
この手紙に託し 海へ
死も犠牲もまた
意識の外にある
囚われた未来
あなたの手に委ね 海へ
時よ止まれよ
幸来れよ民に
ただ一つだけ
聞かれよ祈り
今こそ錨を揚げ
遠く遠く 遠く遠く
我らは漂う
2019年
12月10日(火)
ダブリンに来てもうすぐ一ヶ月が経つ。心に触れる出来事がいくつかあった。このことが、私にとっては最も重要なことだ。いつ何時も、心に直接触れる出来事に出会うことを待っている。待つ行為は決して受動的なものではなく、自分から進んでどこかへ行かなければ、当然出会えない。オープンマインドで物事を捉え、理解しようと努め、人とコミュニケーションすることを怠らないこと。そうするとおのずと出会うのだ。出会ってしまったら私は自分を制御できなくなる。恋をする少女のように、心はそのことで満たされ、行動は大胆になり、そしてときには悲しくなる。こういった情動が全ての物事の始まりだ。始まりに出会うことが、唯一の創作の動機となる。
11月16日(土)
40回目の誕生日をアイルランドのダブリンで迎えた。まだ着いて三日目で、状況がわからない。未知の世界だ。街の人が話す英語は、英語には聞こえない不思議なメロディーラインだ。
そう、いつも私が選ぶのは未知に溢れている世界。なぜかそっちを選んでしまう。だから踏み出したとき、急に怖くなってしまうことがある。でも、自分の直感はいつも正しい。直感が正しいのは、自分を信じる心根であり、また予想を裏切るような事態をも楽しめる強さだ。
どこまで行けるだろうか。これが次の10年の課題だろう。方向性は見えている。あとはどこまで進められるかで、その次の10年が決まるだろう。時間との勝負だ。
京都時間に慣れている自分には、ここのスピード感は刺激的だ。
11月2日(土)
人の表情は心を映している。顔を見ながら話していると、その人がどんなこと考えてどんなふうに感じているのか、なんとなくわかる。いつもと違うとき、「なんかあった?」と聞くと決まって「別にないよ」と答える。でもいろいろと話すうち、「なんか」がぽろぽろ出てくる。ほらあるじゃん。話し終えると、さっきと全然違う表情になってる。面白い。
でも、だからってその人のことを理解しているわけではない。もっともっと言葉にしたことの奥に考えていることがたくさんある。自分には考えも及ばないようなことを、人は考えている。自分だって、他人には絶対にわからないだろうと思うことをいつも考えている。言葉は言葉で、表情は表情で、思考は思考で、それ以外、それ以上に憶測することなんてできない。そこにあるもの、見えるものを受けとめるしかない。
東京に来ると毎日いろんな人に会っていろんな種類の話をする。いろんな話題に触れたければ、いろんな人に会うのがいい。理解し合うなんてことは考えもしない軽薄なくらいの話題の振れ幅が、なんか心地良いときがある。ただの傍観者となって会話を楽しむ時間も、たまには良いのだ。
10月19日(土)
あのときあなたの部屋に残した一枚の紙切れ
表現がしたい
あなたはその言葉に感動したと言った
その思いは薄れるどころか 胸の深いところへとうとう根を下ろしてしまった
そうしてやはり 私は支配されてしまうのだ
何に?
生きるというただそれだけのことに
10月8日(火)
世の中はどうしてこうも薄っぺらいものと深いものの差が激しいんだろうか。薄っぺらいって言ったって、それは社会の構造上仕方ないことであって、人々はわざとそれを演じているわけだし、自分も加担しているし、薄っぺらいから悪いわけでもない。深いって言ったってその深さは見えないし、薄っぺらさを隠すために穴を掘って深くしているだけかもしれないし何も確かなものはない。でも、なんかそれらを隔てる壁が嫌なんだ。わかろうとしないことが。わからないようにすることが。だから私は逃避する。旅が私の人生だ。
10月2日(水)
現代詩手帖10月号の佐々木幹郎特集を読んで、目に留まった言葉。
「詩なんてことは及びもつかない語り言葉を重ねていった先にポエジーがあるのではないか」
核心に近づこうとすればするほど、遠回りをさせられる。問いの答えは詩の中にはなくて、音楽の中にはなくて、たくさん歩いた先にたぶんあるのだ。いつも、その道中にいる。
佐々木さんは旅人だ。私も、旅を大切に思っている。旅をしていると、同じく旅人に出くわす。そしてなぜだか旅人はいろんなことを教えてくれる。佐々木さんもその一人だ。いつぞや佐々木さんがタクシーの中で言ったことが、時折頭によぎる。旅人の言葉は、指先に沁み、心に沁みる。私はそれをズボンのポケットに入れ、今も持ち歩いている。
9月28日(土)
夕方の昼寝は変な夢を見ることが多い。今日見た夢。何か自分は犯罪を犯して今の生活を捨てようとしている。犯罪は反社会的理由らしい。数人の同志がいる。その中には身内もいて、もう二度と会えないし、もう二度と同じ場所に帰れないとわかっている。それでもそのことは当たり前のことのように思っている。途中で夢は終わった。
よく考えると恐ろしい夢だ。何がというと、もう二度と会えない、もう二度と同じ場所に戻れないという事実の目前にいると自覚している状況がだ。このような状況は実際にはあまりないと思う。別れ、喪失は突然やってくるか、いつか来るだろうと思いながらもそれがいつなのかはわからないことが多い。でもこの夢でははっきりとわかっているのだ。夢では、現実には体験し得ないことを疑似体験するからときどき怖いときがある。子供が夜泣きをするのは夢を見ているからなのだろうか。
あの世とこの世、共生と別離、現実と非現実の境目にいるとはどういうことか。
能のワキ方の安田登さんが講演会でこんなことを話していた。「ワキとは、着物の前後を分かつ縫い目のこと。あちらの世界とこちらの世界の境目にいて、主に世捨て人(旅人や僧)であるから、シテの亡霊と交信ができる。」そのような特殊能力をもつ人がワキの役だという。
夕方の昼寝というのも、昼と夜の境目だからそんな夢を見たのだろうか。そういえば夜と朝の境目にも夢はよく見る。安田さんが同講演の際、夏目漱石の「夢十夜」を能風にアレンジして語りをしたのは秀逸だった。あれはワキ方ならではの発想だし、境目にいる怖い感覚を体感した。そういえば川端の作品にも「こんな夢を見た」と語る場面はよく出てくる。深層心理というが、夢の世界の方がもしかしたら現実味を帯びた無意識の心理に近いのかもしれない。
9月21日(土)
今日は宮沢賢治の命日だ。京都の佛立ミュージアムに「宮沢賢治と法華経展」を見に行く。命日に合わせて行われた朗読と解説も聞いた。賢治が仏教徒であったのは知っていたが、それは彼の作品に影響を与えるもののうちの一つであるに過ぎないと思っていた。しかし、賢治を語るのに信仰のことは外せないと、今日思った。いつだったか比叡山のお寺に行ったとき、賢治の歌碑があるのを見つけた。賢治と父親の政次郎が一緒に関西を旅したときに比叡山を訪れたのだという。18歳で法華経を読んで深く感動した賢治は、政次郎と信仰が違うことで父と対立した。賢治にとっては、信仰のことと父親との関係のことは大きな問題だっただろう。
文学作品、芸術作品を鑑賞するとき、作品の純度を汚しそうなものを排除したいという気持ちは、一般的にはあると思う。例えば宗教色だったり政治思想だったり。しかし作家も普通の人間だ。作品は純粋無垢ではなく、人生を経験することで身についた垢によってできている。そこに存在する要素を無視することも、存在しない事実を当てはめることも、正しい芸術の見方ではないだろう。鑑賞するほうは、何も排除できないし、何も付け加えられないのだ、本当は。
また、対象物が古くなればなるほど、その作品の真価をすぐに見ることは難しい。一次元的に、今の自分の価値観でははかれないからだ。芸術とは、いつの時代も、社会との関わりの中で生まれてきた。賢治の生きた時代には、貧しさがあり、戦争があり、時代の緊迫感があった。もっと遡れば、宗教や学問や芸能が市井に下りてきたとき、人々はどんな気持ちでそれらと接しただろうか。考えてみれば、時代が違うのに共通して感動するものがあること自体、驚くべきことだ。普遍を見るとき、我々は知を使わなければならない。「難しいことはわからない」の「わからない」ことに焦点を当ててみるのだ。賢治の作品がいい例だ。彼の作品は難解でどう読んだらいいのかさっぱりわからないものがたくさんある。その紐を解く手段の一つに、宗教があり、自然科学があり、言語があり、心がある。知りたいと思う気持ちしか、私たちが知を深めたり、人と会話をする原動力になるものはないのではないだろうか。
9月11日(水)
近鉄線に乗って奈良へ行ってきた。京都からは、大阪へも奈良へも神戸へも、行こうと思えば行きやすい。だが不思議なことに、京都にいると京都から一歩も出る気にならないのだ。しかし出かけた。
入江泰吉写真美術館に行った。入江泰吉は奈良出身、明治生まれの写真家で、仏像の写真、奈良の風景をたくさん撮っている。実は見たいと思っていた写真は、同美術館で行われている別の写真家の企画展だったのだが、そちらよりも、入江泰吉の仏像の写真にとらえられてしまった。どれも清楚で、生き生きとした仏像の写真群は、見ていると、なぜだか安心した気持ちになった。近頃思う。人の心をとらえる芸術とは、そうでない場合と何が違うのだろう。そこにはロジックがあるのかもしれないが、それだけでは説明できないような気がする。例えば作者の哲学のようなものは、作品の背後にはあるが、光が当たっているのはただの物質であり、光が当たるためのロジックがあるだけだ。では皆が同じロジックを辿れば同じ作品ができるかと言ったら、そうではない。さらにそこから強い印象、言ってみれば磁気のようなものがこちらを引き付けるのは、その背後にあるもの、暗闇の部分に何かシンパシーを感じるからではないだろうか。これはおそらく、双方向の関係性の問題なんだろう。芸術はやはりコミュニケーションの中にある。
もしかしたらと思って、家に帰って白洲正子の巡礼の本を開いてみたら、やはり入江泰吉の写真があった。思えば関西に憧れを持ったのは、白洲正子の巡礼本からだった。東京にいたとき、本を片手に、京都、奈良の山中の寺めぐりに来たことがあった。その頃から入江泰吉の写真は知らずに目にしていたのだ。
そのあと春日の杜を歩いた。途中、鹿に遭遇し、アッと思ったが、そうだ、ここには人に慣れた鹿がいるのだと思い出した。しかし杜の中で会う鹿は、少しだけこちらを警戒している。人の入れない領域がここにはある、と思った。奈良には京都にはない自然の魅力がある。ゆっくりと山の中を歩きたい。
9月9日(月)
ためらいなく、これまでの人生、失敗と挫折を繰り返してきたと言える。何度も諦めたことがたくさんある。失った分だけ手に入れたものがあるのだろうか?手に入れた分だけ失ったものがあるのだろうか?失うもののほうが圧倒的に多い気がするし、手に入れるといえば名声やお金ではなく、経験することの価値、だろうか。価値というと値打ちがありそうだが、他の人にはどうでもいいようなことだ。でもそのどうでもいいことが自分をなんとか保たせてくれている。
しばらく行ってなかった歯医者に行った。予想はしていたが、トラブルだらけだった。神に捧げたのはこの体か。今月は体チェック月間としよう。
9月6日(金)
プライドが邪魔をする、という状況がしばしばある。邪魔をすると自分で認識するくらいだから、プライドは持っていてもあまり良いことはないんだろう。ここでいう日本語のプライドとは、自尊心のことだ。ヨーロッパにいたときに、"I'm proud of you." と友達に言われた。「あなたを誇りに思う」という意味で、親しい人によく使われる。このproudはprideの形容詞だが、この文脈でのprideは、他者に評価してもらえたり、存在を認めてもらっているという安心感や喜びが感じられて、つくづく他者にかける言葉は大事だと思った。
言葉は、コミュニティの中で生きる。音楽や芸術もまた、コミュニティの中で生きるものだ。人がそばにいてその人の体温を感じるのと同じように、芸術も肌に触れたり、または心という未知の機関に入っていくことができる。ただ、その際の言葉かけが重要だと思う。これはもしかしたら、暴力はいけないとか、戦争はいけないとか、そういう主張と通じることなのかもしれないが、ただ単純に、置かれた環境の常識に麻痺すると必ず失敗をするという、個人的な、または歴史的な経験からの示唆である。言葉は、持っている種類や、使う環境によって、まったく異なった機能をするものだ。だから、私は怖い。自分を表に出して人と会話することが。でも、相手を知りたい、もっと話し合いたいという欲求には抗えない。そういうものなんだ、人間て。
ある朝 僕は 空の 中に、
黒い 旗が はためくを 見た。
はたはた それは はためいてゐたが、
音は きこえぬ 高きが ゆゑに。
手繰り 下ろさうと 僕は したが、
綱も なければ それも 叶はず、
旗は はたはた はためく ばかり、
空の 奥処に 舞ひ入る 如く。
(中原中也詩「曇天」より)
8月26日(月)
石牟礼道子原作の新作能「沖宮」のDVDを観た。少し前に、アトリエシムラで開催されたこの新作能に関するレクチャーがあり、詞章監修をされた中村健史さんのお話が聞けた。自分にとってかなり重要なワードがたくさんあり、メモを取った。その中で特に印象に残った言葉。
「能の理想とする形は、「小布」のようなもの」
つまり、布全体を広げるのではなく、一部分だけを見せて全体を想像させるものであるということ。能の面ひとつ取っても、同じ面を用いて、角度によって様々な表情を感じさせようとする。そこに至らせる、極限まで単純化された表現を美とする精神には、無を求める執拗さという矛盾したものがあり、そういった表裏一体のカオスが日本文化なのかもしれない。と、近頃そんなことばかり考えている。
8月11日(日)
京都の夏の風物の詩の一つに、五条坂で行われる陶器市がある。道の両側に、府内または他県からの陶作家、窯元が軒を連ねる。友人が出店していたので覗き、二点購入した。
ちょうどいいので、前から行ってみたかった河井寛次郎のアトリエ兼自宅(今は記念館になっている)にも行ってみた。建物、内装は当時のままで、河井寛次郎の作品や、集めた民芸品が置かれ、時が止まったような空間だった。
河井寛次郎といえば、男はつらいよ第29作「あじさいの恋」(昭和57年公開)の、片岡仁左衛門演じる陶芸家のモデルにもなっている。受付にいるおじさん(さしずめ番頭さんといったところだろうか)に声をかけると、撮影のときのことをいろいろと教えてくれた。前の晩に飲み過ぎた寅さんが、朝見知らぬ家で目覚めるのはお決まりの名シーンだ。寅さんが泊まった部屋がちゃんと二階にあった。家に帰って作品を観直してみた。
この回は、鴨川の川岸で、鼻緒を切らした片岡仁左衛門演じる老人を寅さんが助けるシーンから始まるのだ。上賀茂神社参道の焼き餅屋、祇園小唄の響くお茶屋、町家の並ぶ五条坂の路地裏、豆腐を買いに行く女の下駄の音と、冒頭に京都の40年前の様子が映されている。今はなき風景もある。昭和期の映画は既に歴史的資産となったのだなと感じた。寅さんが雪駄で歩ける道は、日本にもうないだろう。
映画の中で、恋を簡単に諦めてしまうマドンナ役のいしだあゆみに、片岡仁左衛門はこう言う。「人間てもんはな、ここぞというときには全身のエネルギーをこめてぶつかっていかなあかんねん。命をかけなあかへんねん。」
河井寛次郎のアトリエで見た壮観な登り窯と、野太い野性的な作品を思い出した。全身のエネルギーはどのようにして湧き、何に向かってぶつけるべきであろうか?そんな無粋な疑問が浮かんでしまう現代人は、なんてひ弱なんだろうか。
8月8日(木)
先日、東京で佐々木幹郎さんにお会いした際、とある飲み会に連れて行っていただいた。(それが、錚々たる顔ぶれで大興奮だったことはここには書かないが)中原中也の話になった。中也の詩がわかるようになるのは人生に一大事が起きたとき、大転換があったときなんだ、子供に中也がわかってたまるか。とお酒の入った佐々木さんは少しだけ息巻いていた。しかしその意見には同感。中也よりもとっくに年上になった今、ようやくその詩の本当の魅力がわかるようになってきた。中也の最も有名な詩、『汚れつちまつた悲しみに……』の「汚れた悲しみ」の意味がわかるようになったら、中也の詩がいかに純粋で洗練されているかがわかるだろう。この「汚れた悲しみ」は他の詩にも変わった形で出てくる。例えば『頑是ない歌』という詩。
思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いづこ
故郷の港で汽笛を眺めている少年は、「悲しみ」ということなど知らない。知らないということは、知らないことを知っているということであり、少年時分に知っていたことを今の自分は知らないのだ。人は往々にして、経験によって得たものを価値のあるものとするが、同時にかなり大きなものを失っている。失っていく過程を、「成長」とか「成熟」などと言っているに過ぎないんじゃないだろうか。失って二度と戻らないものが悲しみとなり、また恋い焦がれる対象となり、詩という最も詩人の内面が具体化された形に変えられていく。ときにそれは、音楽としてはっきりと聞こえてくるのだ。
8月1日(木)
一年で最も暑い時期が到来した。それはもう、突然やってくる。とりわけ京都はおそろしく暑い。朝のうちに家を飛び出し、図書館で過ごすのが賢明だ。
8月という文字を見ると、今年も終わりの方に近づいているという感じがする。来月にはようやく、新しいアルバムが完成する予定だ。これはすごい内容なのだ。全作業を早く終えて手放したい。そして今年の終わりころには、また旅に出ようと思っている。そのころには40代に突入しているわけだが、この歳になって出会う新しいものの吸収の仕方は、若い時とは明らかに違うが、これまでの積み重ねの上での選択ができるという利点がある。若い時には使える時間の自由度は高いものの、選択の余地がなく、まず選択の仕方を知らなかった。だからこれからの旅はもっと深く濃く、メモリーに刻まれていくのではないかと思う。もちろん新しいものに向かうときは無心になる覚悟だし、いつもそうなってしまうのだが。定位置でない場所での自分を試さないことには、何もわからない。考えること、身体を動かすこと、ただただ自分を自由にさせてやること、どれも私の大切な仕事だ。
7月25日(木)
自分の能力にはもっと真剣に取り合ってやるべきだ。自信のなさから逃げてしまいそうになるが、それではいつまで経っても能力は表に出てこられない。自分の人格とは別の生き物と考え、能力を引き出すための行動を起こしてやならければいけない。表に顔を出してくれば、あとは放っておけばよい。自由に解き放ってやることが大事なんだ。
7月14日(日)
過ぎ去った記憶は過ぎ去った事実にも気づかないほど、あっけなく、ほとんど存在しなかったかのように姿を消す。
ただ、一度ポケットに入れた記憶はただの記憶ではない。
ポケットに入れる行為は、自分の中ではっきりと肯定的に意味づけしようとすることだ。
その行為のあとには、もう記憶はよそ者ではなく、愛撫する対象になっているのだ。
7月6日(土)
旅をした記憶は突然よみがえって、ときどきふと涙が出そうになる。瞬間瞬間をきちんと覚えている。またあそこへ戻りたい、また友達に会いたい、そういう気持ちが日々の暮らしの活力となり、また次の旅へと誘う。永遠の自由と若さは旅によってのみ得られるのではないか。
6月26日(水)
NHKラジオにて、安田登さんの孔子の論語の解釈について。
「四十にして惑わず」は今では一般的な言葉だが、孔子が本来言おうとしていたことは違うのではないかという話。
当時「惑」という漢字はなかった。この漢字から心を取ると「或」という漢字になる。
「或」は区切るという意味で、「域」や「國」という漢字に使われている。
であるからして「四十にして或(くぎ)らず」が正しいのではないか。
孔子がそのようなことを思っていたとしたら心強い。
四十にして未だ未熟者。
6月25日(火)
山に落ちる雨音はやさしい
葉を叩く雨粒の音
大地が雨を吸収する音
鳥たちが沈黙する
鮮やかな空の青はかなしい
音はなく
行く先も戻る場所もない
無限の存在は何も定義しない
手を伸ばしたら
あなたはその手を
掴んでくれるだろうか
6月19日(水)
人は助け合って生きるものだ。
というのは共同体での助け合いではなく、ある状況に陥ったときに救って(掬って)くれたり、発想の転換をしてくれたり、少しの勇気をくれたりする、いわばギフトのような助け合いだ。それも、生身の、対面のやりとりでなければいけない。より自然に近い形で受け取ったり与えたりすることは、その行為自体に、「気づく」という能動的な感性を鍛える効果がある。
使わない感性は衰えていく。まだ開いていない感性は伸びしろがある。感性の交感が人間のコミュニケーションの本質だ。
6月16日(日)
京都は三方を山に囲まれた盆地だ。どこからでもたいてい山が目に入る。私の住んでいるところは特に山がすぐそばにあり、多くは杉の木だ。他にも、檜、松、桐、桜、欅など、山にはたくさんの種類の木が共生している。
昨日の京都新聞に、京都に長く続く材木商の記事が載っていた。伐採された木は商品になるまでに少なくとも10年、長いものでは50年寝かせるという。実際に出荷されるときには先代、先々代の入荷した材木であることもめずらしくないという。
「先祖に助けてもらって、子孫のために働く。そんな気の長い仕事です」
伝統芸能もそのようなものだと聞いたことがある。伝統芸能者は時代と時代の橋渡しであり、後世に伝えるために芸を磨いている、と。それは表現者として実に明確、明瞭な目的だと思う。表現する上で最も葛藤や迷いの理由になるのが、この目的 (purpose, aim)の設定なのだ。目的をはっきりと認識し、人に伝えられるだけの言葉にできたらほとんど達成されたも同然だが、なかなかそうはうまくいかない。芸術の目的や存在意義は流動的だからだ。時代によって変わる。社会によって変わる。表現する自分自身も外的刺激によって変わる。
もちろん、今「伝統」と言われているものも、長い歴史の中では、社会の状況に流され、多くの変遷を重ねてきた。しかしそのときどきで人々は目的に向かって確実に橋渡しをしてきた。だから800年も1000年も続いてきたのだ。
生物の生命を繋ぐDNAのように、自分は瞬間と瞬間を繋ぐ一コマでしかない。逆を言えば、大地から離れても生き続ける木のように、我々の命は簡単には尽きないのだ。
もっとミクロの世界に身を捧げたい。
6月10日(月)
いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない
一滴の水の微顫も
無益な千万の波動をつひやすのだ
水の静けさを貴んで
静寂の価を量らなければいけない
(高村光太郎詩「おそれ」より)
何か、愛おしいものに触れたとき、その瞬間を壊すのが怖くて、それ以上深入りするのを躊躇ってしまう。非常な覚悟をして静寂を侵す勇気は、今の私にはない。自分を信じきれない、臆病者だ。
6月9日(日)
たまたま見ていたNHKのドキュメンタリーが衝撃的だった。日本では法律で禁止されている医療での積極的援助死(安楽死)を望み、死にゆくことを自ら選び、スイスに渡り実行する女性を番組は追っていた。難病を抱え、徐々に動かなくなる身体を観察し、切に自分らしい生き方を求める女性は、もうそれができないと判断し、死を選んだ。その大きな選択をするまでには、何度も自殺未遂を重ねるなど苦悩があった。スイスでの死の前日、女性は姉たちとの最後の晩餐のときをもつ。一人の姉は言った。「私の人生において、あなたの存在は大きかったわよ。」彼女は独身だったが、家族に愛されていた。安楽死を決めるまで、決めてから、姉たちとの関係性も大きく変わったという。そして死ぬ瞬間もカメラは追っていた。致死薬の入った点滴を装着し、自らストッパーを外す。彼女は軽やかに「じゃあ開けまぁす。ありがとね、いろいろ。」と言って、姉たちに看取られて旅立った。
自ら死を選ぶということは、ある宗教では罪とされ、一般的には人間の弱さを象徴するものとして語られる傾向がある。しかし彼女の姿は、私には強さに映った。冷静に自分を見つめ、生きるということを考えに考え抜いて死を決断した。それが強さでなければ何であろう。身体が動かなくなって寝たきりになっても、幸せを感じることのできる人もいれば、健康体でも生きる気力を失ってしまう人もいる。人は本当に様々なのだ。ただ言えることは、誰もが自分らしく生きたいと願っているということだ。それを叶えられるより良い社会とは何だろうか。安楽死を合法化することが解決策だとは思わない。けれども平等に生きることや死ぬことを真剣に考えることができ、他者と共有できる環境が必要だと思う。現状は、高齢者のみならず若い人が孤独死をするような社会だ。家族に看取られて薬によって死んでいった女性は、少なくとも死の瞬間に一人ではなかったし、彼女に関わった人たちは、生や死の意味を彼女に教えられたことだろう。そのような尊いもののことを考えると、なぜだか胸が締め付けられる。
5月30日(木)
音楽は私の全てであるが、音楽が全ての私ではない。
献身はするが、束縛はされない。
5月28日(火)
酔っ払ってふらふらしながら無駄に歩くのが好きだ。鼻歌交じりにコンビニ寄って、アイスクリームを食べながら歩く夏の夜は最高だ。
人は、孤独であることを自ら認めてしまえば、何も人を傷つけなくたって済むのだ。何にも知らない人を攻撃する必要なんてないのだ。
身一点になって、あるべき場所に帰れば、それでいいのだ。
5月26日(日)
一昨年ヨーロッパを武者修行したときは、まったくと言っていいほど英語ができなかった。もちろん現地で会った人たちはそれを咎めることもないし、とても親切にしてくれた。けれどこちらが理解できないことが多く、ほとんどは言葉以外のところで感じるしかなかった。本当はもっと伝えたいし話し合いたいという場面がたくさんあって悔しい思いをした。
一年経って、昨年スイスを訪れたときには、少しはましになっていた。再会した友達も、上達していると言ってくれた。でもまだ相手の話していることの20%くらいしか理解できないし、自分が伝えたいことの5%くらいしか話すことができなかった。そんな中、ある親しい友達が助言してくれた。「日本に帰ったら、まず英語の勉強を何よりも最優先させなさい。音楽を端に置いてでも、それをまずやるべきだ。そうしたらあなたの好きなヨーロッパで、もっとよく過ごすことができるし、必ず音楽家としての仕事にも役立つから。あなたならできる。」と。
海外に行ったり、海外の人とコミュニケーションするときにはもちろん、自分の知りたい情報が日本語で得ることができなかったり、英語で作られた文学や映画などの芸術作品を原語で鑑賞したいと思ったとき、英語の必要性を感じる。ヨーロッパ文化は、実際には英語ではなくてその国の言葉がわからないと理解するのが難しいが、英語がわかれば、日本語よりはそれらの言語にも近づきやすい。音楽のことはもちろんだけれど、音楽と関係のない様々な文化や社会のことを知りたいという欲求が、歳を重ねるごとに膨らんでいく。
あれからまた一年が経ち、今英語の勉強を最優先させている。彼に言われたからではないが、そうせざるを得ない状況になったからだ。それもこれも、音楽のために他のことは捨てて勉強しなかった青春時代のツケだ。人生ってやつはまったく、うまくいかない。
5月24日(金)
今日の京都新聞に掲載されていた村上春樹氏のインタビューにこんなことが書いてあった。
「僕は個人的には物語というものは、長ければ長いほどいいんじゃないかと考えています。それは少なくとも断片ではないからです。そこには一貫した価値の軸がなくてはならない。そしてそれは時間の試練を乗り越えなくてはならない。」
現代の社会で、SNSを利用した発信の仕方や、コミュニティでの自己表現のあり方は、とても時間を乗り越えられる耐久性がない。何もかもが目まぐるしく、対話という概念が忘れ去られたのではないかとさえ思える。川端康成が書いていた50年前よりも、村上春樹が書いている現在よりも、この先対話にかける時間はどんどん減っていくだろう。
先日、映画「ビル・エヴァンス タイム・リメンバード」を観た。ビル・エヴァンスや彼が在籍していたマイルス・デイヴィスのグループは、当時ハード・バップが隆盛していたジャズシーンの流れを変えた。その変革は、大きくはヨーロッパに影響を与えただろう。あれから60年近く経った今も影響を与え続けているし、未だその支脈の中にいる。
映画には出てこなかったが、私が印象的に覚えているビル・エヴァンスの言葉は、「ジャズとはスタイルではなくプロセスだ」という言葉だ。スタイルを作ることにではなく、プロセスを経ることに意味があるのだと。そこにじっくり向き合うには、耐久性が必要なのだ。時代に流されず、自分との対話ができるかどうか。長ければ長いほどいい、一貫した価値の軸を保ち続けられるかどうか。小さなピースから、長いセンテンスを作っていく。それは断片の繋ぎ合せではない。一貫した、変わらない情熱なのだ。
5月21日(火)
子宮の中は真っ暗だという。暗闇の中、ただ水だけの中で胎児は約10ヶ月暮らす。闇という漢字を見ると、「音」が閉じ込められている。振動、共鳴するものがなければ音は発生しない。子宮の中は空気がないから、音を伝える手段がない。だから胎児は自ら声を発することもできないし(発しても音にはならない)、外の音も伝わらない。ほとんどは母親の心臓の音だけを聞いているのだという。
闇や無音状態というのは、我々に安心をもたらすこともあれば、不安を掻き立てることもある。そのときの精神状態や活動している環境によっても感じ方が違うが、私は毎日暮らしている環境で、一日の終わりに夜の闇に包まれると安心する。それからなるべく音のない状態(完全になくすことはできない)にあると精神が落ち着く。なぜだろうか。そういった基準はどこから来るのかといえば、やはり母親の胎内での記憶ではなかろうか。10ヶ月も暗闇と無音の中で母体に守られて暮らすその環境は、最高のユートピアなのではないだろうかと、単純に思ってしまう。生まれてしまったらあらゆる雑音、騒音に悩まされる。しかし実際には胎児はお腹の中で忙しく活動をしているらしい。生まれるための準備だ。胎児のことはまだ究明されていないことがほとんどだとは、驚きだ。
(「胎児のはなし」最相葉月, 増崎英明 / ミシマ社 を読んで)
5月17日(金)
価値基準は自分自身でなければならない。社会の法も、誰かの習慣も、自分の存在意義を測る材料にはならない。だから人は専門性を持ち、知識を蓄えるのだ。答えを自分自身で探すことでしか解決できないことがある。ときにはその行動が、社会への反発、集団からの孤立に繋がることもあるが、それは構わないのだ。人間は防衛本能を持っているものだ。簡単に押し潰されはしない。しかし、防衛も度を過ぎると過保護になる。バランス感覚が大事だ。価値基準が自分という意味は、身体のどこか一点を中心に据え、そこを意識しながら、起こった事に自分がどのように反応するかを観察することだ。自または他をジャッジすることではない。バランスを崩せば怪我をするし、調子に乗れば暴走もする。生きることはアクロバティックだ。
5月10日(金)
自分の道を歩み始めてしまったら人の裁量にはもう到底及ばない。本当の意味で自由になるには、自分で責任を取ることだ。しかし自分一人で自分を受け止めることは不可能である。許容量と容量のバランスが合わない。毎日せこせこと生産し蓄えているうちの8割方は、また毎日廃棄せねば間に合わない。さもなくば誰かに託すことだ。
して、自由とは。
5月9日(木)
「文学者やアーティストの使命は、二つあるとわたしは考えている。個人の精神の自由度を拡大・深化させること、そして社会のフェアネスに寄与すること。」(作家・村上 龍)
これがアーティストに課せられた知と行の結合だろう。誰でも、自らを表現者と呼ぶなら、この両方を実践せねばならない。それは必然だ。
5月6日(月)
写真が面白い。毎年GW近辺に京都ではKyotographieという写真展イベントが開催される。京都の様々な歴史的建築物も含む会場で、国際的な写真家の展示を多数見ることができる。去年も見てすごく楽しかったから、今年は通しパスポートを購入した。お寺の別棟や、工場跡地、酒蔵など、普段入れない場所に行けるのもイベントの魅力だ。近頃10年ぶりくらいでフィルムカメラを手にしたこともあり、写真を見ることは今、私の興味の最上位だ。
先日、東京都写真美術館で「写真の起源 英国」を見た。1800年代、欧米の科学者たちはどうやって像を紙に定着させるかを、競うように様々な方法を編み出した。中でもイギリスで発明されたネガ・ポジ式の写真技術は革命的だった。今でこそ写真は誰でも撮れるものだが、当時は科学者でなければ扱えない分野だったのだ。光学や薬品を扱う技術と知識が特別に必要だったからだ。昔はひとつの分野での専門性はもっと狭い範囲で持たれていただろう。音楽も、例えば楽器はごく一部の人、一部の階級の人しか持てなかった。であるから始めはその一部の人がある目的のために研究し、技術が高められていった。時を経て大衆のものになると、その役割と形は姿を変えていく。
4月28日(日)
ノルウェー人のBjarneさんと京都で会う。日本は20年ぶりだという。
京都にいると外国人と会う回数は多い。日本を訪れる外国人は、短期・長期滞在者、旅行者を含め、だいたい京都を通るのである。友人の紹介で、会ってみない?という打診がままあり、私はそれを断らない。
Bjarneさんは京都に居住経験もあるし、東洋史についてもよく勉強されているから私よりもずっと知識が豊富だ。カフェで一杯のコーヒーで3時間、さらに四条大宮から四条大橋まで歩きながらずっと話していた。(もちろん日本語でだ。英語じゃそんなにもたない。)
初めて会う人との会話は、当然相手の素性を知るところから始まるのだが、Bjarneさんとはイントロダクションもそこそこに、すぐに日本や東洋の文化についての話になった。私が今最も興味を持っている日本・アジア文化については、意外と話せる友人がいない。だから嬉しくて思いつくままにどんどん話した。Bjarneさんは同調し、さらにヨーロッパ文化との比較も交えていろいろなことを教えてくれた。こういう時間は本当にありがたい。
自分の今持っている経験、技術、知識を、これからどのように伸ばし、何と結合させ、どう発展させたいか。そういったことは簡単に説明できることではないが、できる限り言葉にして誰かに話すことで、プランが明確になることがある。今の私にはそのことは最も価値のあることだ。
創造性とはあらゆる環境から生まれるものである。遇・不遇は関係ない。
肝心なのは、自分がいつでも扉を開く準備があるかどうかだ。
4月24日(水)
他者がどのような意図をして、どのような技術を持ってその仕事を行なっているのか、知らずにリスペクトを欠かしてしまうことがしばしばある。そのようなとき、本当に自分は無知で愚かだと反省する。
しかしそんな自分でも、たったひとつだけ幸福の種を手の中に握っている。今、指をゆっくりと開いて、土にその種を蒔こうというところだ。土壌は自分自身である。いかにして栄養分を蓄え、根を張らせ、その存在は高く青々と空に伸びることができるだろうか。
プロセスを踏み、観察をすることが目下課題だ。
4月11日(木)
1800年代を生きたアメリカの詩人Emily Dickinsonは、生涯生まれた地を出ず、多くを家の中で過ごした。試作は1700にも及んだ。生前に発表された詩はわずか10篇だった。
彼女は生涯のほとんどを孤独に、ひとりの世界を過ごした。
かつての金子みすゞや高村智恵子にも共通する精神だ。
たったひとりであることは社会への反発でも他者を拒否することでもない。
ただ、あまりに傷つきやすく、自己に陶酔するしかなかったのだ。
その内に向かうエネルギーは計り知れない。
その証拠に、幾多の作品が残され、100年、それ以上も生き続けている。
誰の評価も必要とせず、たったひとりで生命を繋ぐことは、人間にはできるのだ。
The Heart has many Doors−
I can but knock−
For any sweet "Come in"
Impelled to hark−
Not saddened by repulse,
Repast to me
That somewhere, there exists,
Supremacy−
4月6日(土)
私は船を所有している
その船の操縦もしている
たった一人で暗い海の沖を航海している
ときには乗組員がいる
旅人も乗せる
彼らは行き先を知らない
知らないのがいいのだという
海がどよめく
太陽が遠ざかる
星が降る
月に寄る
笑い声はしぶきとなって消え
私はさらに航海を進める
3月29日(金)
自分は人間について、社会について何を知っているだろうか。たぶん何も知らない。無知であるからこそ、もっと知りたいと思う。
どうしても、自分の目で見たもの、体験したこと以外は信じられない。人々が分断していく様は私には理解ができない。我慢ならない。
国の違い、言語の違い、年齢や性の違い、職種の違い、それらでその人間の価値を問うことができるだろうか。
価値観の同一化ほど危険なことはない。複数の違う眼が同じ場所にあってこそ、健全な社会を構築するのだ。
今に始まったことではないが、あらゆる場面で人々の分断を感じるとき、私は激しく憤る。そして自分は分断を止める手段を持たない。そう、つまり不甲斐ないのだ。
3月25日(月)
ヨーロッパの旅のメモを清書していたら、アムステルダム滞在中の日記の段で手が止まった。
2017年8月のある日、アムステルダムのホロコースト美術館に行った際、Annemie Wolffという写真家の写真展が開催されていた。改めてその写真家のことをインターネットで調べたら、とても興味深い人物なのだ。
Annemie Wolffは1906年ドイツ生まれの写真家で、ユダヤ人の夫で建築家のHelmuth Wolffと共に、ナチスが台頭するドイツからアムステルダムに亡命した。二人はスタジオを開設し、オランダでの生活をスタートさせた頃だった。1940年オランダにナチスが侵攻、夫婦はガス自殺を図る。夫は亡くなり、妻は生き残った。
その後、生き残ったAnnemieがどうしたかというと、アムステルダムに住むユダヤ人たちを彼女のスタジオに呼び、一人一人のポートレイトを克明に残した。その数は440人、100本ものフィルムに収められていた。しかも、その写真の存在はつい最近まで誰も知らなかったのだ。数年前、そのフィルムと被写体の名前と住所が記されたノートが発見された。私はそれらの写真を幸運にもこの写真展で観ることができた。
Annemieは戦後、1994年に亡くなるまで、近しい人にさえも、その写真の存在を話さなかった。何のためにそれだけの数の写真を撮り続けたのか、写真家がどんな思いでいたのか、わかる資料は今のところないようだ。戦争のこと、ユダヤ人迫害のこと、夫との死別のこと、全ては言葉に残せないほど壮絶な体験だったのだろう。彼女が撮影した被写体のほとんどが生き残れなかったことを考えれば、語る言葉などないのは当然であろう。
彼女の思いはただ、ファインダー越しの被写体の、様々な表情の中にのみ表れている。
Annemie Wolffのことはインターネットにも情報が少ない。展示も私が観たアムステルダム以降行われている様子がない。財団のホームページは行方不明、研究家による書籍が一冊出ているがオランダ語のみ。ヨーロッパでもまだほとんど知られていない写真家なのだ。彼女の写真に触れたら、魅力を感じる人は多いだろう。文化、芸術が遺産として残るかどうかは私たちの関心に依る。
3月21日(木)
京都へ移ってきてから約一年になる。
それまで東京以外の土地に住んだことがなかったのだから、自分としては大転換である。
私の移住に関する周りの反応は、「自由でいい」「うらやましい」「あなたに合っている」などが多かった。
しかしただ一人だけ、「京都に一人でつらいでしょう」と言った人がいた。
驚いた。
確かに京都に住むことは夢だったし、ここの空気も好きだし、ここにいることは幸せだ。
しかし、長年住み慣れた土地を離れて、知り合いのいない街に暮らすことはそう容易いことではないと、経験してわかった。
その人はそのことをよく知っているのだ。実際に私がつらそうに見えたのではなく、想像して言っただけだ。しかし人の気持ちを想像することは、その人の経験を通してのみできることだ。そうでなければ嘘であろう。
「つらいでしょう」と、軽やかに言われたとき、私はその人のことを心底大人だと感じた。同情するわけでもなく、知ったかぶりをするわけでもなく、ただ静かな優しさがそこにはあった。
ヨーロッパの旅先で出会った人たちも、そういった優しさを持っていた。彼らの多くは国を跨いで、生まれた土地ではないところで暮らしを立てている移住者だ。ヨーロッパという場所は、様々な人の生き方を教えてくれる。
土地、大陸、自然、都市、その中で出会った人たちが自分の感性を育んでくれる。
3月19日(火)
言葉なしでは成立しないアートは同時に音や姿形がなければ成立しない。
そして両方が呼応していなければいけない。
いつかどこかで溝を埋めたいと思うが、もしかしたら永遠に不完全かもしれない。
それでも一向構わないが。
確かな歩みは不確かへ向かっている。
3月15日(金)
ほとんど気分で行動するのは昔からの癖で治らない。
しかし、この気分てやつは大事なんだ。気分が乗らないときに無理やり何かをしてもいい結果にはならない。自分を貶めて傷つけることにもなりかねないから気をつける必要がある。もちろん、気分が大きくなって後悔することもある。が、気持ちのないことはしたくない。
気分の行動が人を動かすことだってある。ときどきは。
3月10日(日)
傷ついた者たちは 寄り合い 拒絶し合う
これ以上先に道がないかのように 歩みは鈍い
汚れつちまつた悲しみが 今日と同じ明日を望む
目の前にある空虚だけが 自分の理解者だ
3月3日(月)
川端の小説は異常だ。奇妙だ。何度も読んでいる「伊豆の踊子」や「雪国」「山の音」は毎回驚かされる。新たに読んだ「古都」もまた異常な作品だ。小説の内容そのものは異常ではない。川端の書く人間の愛や孤独については、心深く染み入って、温かいものも感じる。しかし普通でないのは、それらが無音の中で行われることと、終わりに一切の余韻を残さないことだ。ナイフでサッと切るように物語と現実を切り離す。なんと残酷なのだろうか。幻影と実在は同居しない。「古都」の中に出てくる双子の姉妹の片方は現し身で、片方は幻で、その二人は、もみじの古木の幹に別々に生えたすみれのように、同じ姿をしているが出会うことはない。重なり合い、消し合う。
2月28日(木)
京都・ギャラリー白川でSeason Lao展を観る。和紙のような材質の紙に雪山の風景写真が印画されている。京都の雅の山も、スイスの雄大なアルプスも、風合いがどこか水墨画のように淡く繊細なタッチだ。しかしれっきとした写真表現だ。
作家曰く、彼の作品は70%の哲学と30%の技法で構成されるという。哲学とは、イコール言葉だ。言葉とは、口から発せられるまたは文章にされる実質的なものを含め、内在する思考を指す。技法はその言葉を相手に伝えるツールだ。言葉もツールではあるが、表層に現れない段階での言葉はまだツールではない。
作品を生み出すには、どの技法を選び磨くのか、ということがまずは重要になるが、それが見つかればあとは考えを言語化するだけなのだ。できるだけシンプルに。
そして言語化する過程で、あるボーダーを越えなければいけないときがやってくる。そこが最も難関なのだが、もしかすると技法がそれを助けるのかもしれない。
未知のことに向かうために人間は知を養うのだ。針の先ほどのわずかなバランス感覚と直感を頼りに。
決して損なわれてはいけないものが個人個人にはある。社会の「主義」という囲いの中ではそれは簡単に打ち消されてしまうだろう。
過去からの今をどう定義するのか、まさしくそれぞれの哲学だ。
2月13日(水)
夢のためにやっていることでも、いつかは経済活動になる。お腹が満たされれば今度は夢が置いてきぼりになる。夢の達成と金銭を得ることは必ずしも一致しない。お金を稼ぐことは、屈辱の匂いを嗅ぐことでもあるのだ。ただ一部の人間の価値観の一つに縛られるという。
1月30日(水)
西ドイツ時代の映画「13回の新月のある年に(In Einen Jahr Mit 13 Monden/Rainer Werner Fassbinder/1978)」を観た。
これが40年前の作品とは思えない。今現在においても日本国内ではこういう表現は不可能だ。民族性の違いと言えばそれまでだが、人間の性質は世界中どこへ行っても大差ないだろう。しかし創られた秩序や社会通念は場所によって違う。ヨーロッパのアートはそもそもベクトルが日本のそれとは逆だ。常に解放、自由へと向かう。対して、私が現在日常的に営んでいる行為を例にとれば、それは全く異質のものだ。あまりの異質さに、映画を観終わった後、腹に淀んでいたエネルギーが逆流したような感覚になった。そう、こうして突き上げるように刺激してくるのがヨーロッパのアートだ。こうでなくっちゃ。
1月26日(土)
ああ、人間、人間、人間。
人間とは何だろうか。
民族映像文化研究所1977年制作による記録映画「イヨマンテ −熊おくり」を観る。
アイヌの人々が行ってきた自然信仰、火の神、水の神、山の神への祈り。そういったことは古代から日本人が行ってきたことだ。
しかし自分はいつの間にか現代人であり、現代の社会の価値観でしか物事を図れなくなっている。そして、現代の今いる場所における法や秩序に縛られて、または守られて生きることしかできない。そのことで失われているものはたくさんある。
多少なりとも、現状の社会に甘んじて生きることの危機感を感じる(決して悲観的ではなく)。
短い生の中で、どう生きるかが最大の問題なのだ。これは、エゴイスティックな一人の人間としての、ただ自分一人だけの問題だ。
他の誰も、自分の生き方を非難、批評することはできない。逆もまた。
考えさせられるフィルムだった。
1月18日(金)
ヨーロッパ滞在日記より
<2018年7月8日>
朝散歩をする。カフェを探すがどこもまだ開いていない。
日曜だし開かない可能性もある。
だいぶ歩いてようやくカフェを見つける。朝の美味しいコーヒーが何よりだ。
クロワッサンを二つ買って帰る。
10時頃Tilmannが起きてきて一緒に朝食をとる。相変わらず聞き取りづらい英語だが、英語に早く慣れたいのでなるべく多く喋るようにする。
今フラットに住んでいるSimonも合流する。彼らはとても良い人たちだ。
下手な英語にも耳を傾けてくれるし、こちらの文化にも興味を示してくれる。
世界というのはこういうふうに互いを尊重し合うことを普通にできることが理想だ。
こうして自分の成長に誰かが関与してくれる状況を得られることが幸福というものだ。
(Zurichにて)
1月1日(火)
京都で初めてのお正月を迎えた。
暮れから気温がぐっと下がり、空気は澄んで気持ちが良い。
お正月の朝は決まって晴天だ。
せっかく京都にいるので、京都産の野菜と西京味噌を使い、京風雑煮をこしらえてみた。
お餅は、岡山の友達が無農薬で育てたお米をついたものを送ってくれた。
京都では丸餅を焼かずに出汁で煮るが、今回は慣れ親しんだ関東風を採用し、焼いた角餅を入れた。
昆布とかつおで取った出汁と甘い西京味噌のお雑煮は香りが良く、抜群の出来だった。
お餅も素晴らしい。
長年関東の醤油ベースのお雑煮をいただいていたが、白味噌のお雑煮の美味しさを新発見した。
新しい発見の多い年にしたい。
2018年
12月31日(月)
友達はいらない、仲間が欲しい
恋人はいらない、語り合えるパートナーが欲しい
お金はいらない、熱くなれるものが欲しい
安心はいらない、思いやれる心が欲しい
音楽はいらない、通じ合える言葉が欲しい
言葉はいらない、嘘のない音楽が欲しい
渇望は明日の糧だ
12月27日(木)
ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。
(中原中也「いのちの声」より)
一日の終わりに家路につき、
夜と山の漆黒の中に帰ったとき、
身一点に感じる幸福は何ものにも代え難い。
自分が何者であるか、
何処に居るのか、
それは身一点に感じられたときにのみ、明らかになる。
共生、共鳴はそれ自体が目的ではなく、身一点から派生するものなのだ。
12月19日(水)
静寂の中の一音は重い。
静寂は内なる声だ。
内なる声は「私」の魂だ。
魂には魂で応えるしかない。
それができるのは勇気ある者のみだ。
12月11日(火)
感傷は罪な快楽だろうか。
あのときあの場所にいた自分は置き去りにされ
精神だけが独り立ちし、感情は意味を持たず、肉体は若いままだ。
ちぐはぐな自分という、ありきたりな存在を
肯定などするものか。
ましてや他人に
理解などされてたまるものか。
10月24日(水)
人は、結局は、何にも抗えないのだ。現実にも、欲望にも、自尊心にも。
ここらで観念してみてはどうか。
10月14日(日)
理由を探さずとも表現できる理由はないものだろうか。
10月11日(木)
自分の利益を優先するよりも、他の人の利益を優先する方が、結果的には自分に返ってくるものが大きいのではないだろうか。また、すごく欲しいものをすぐに鷲掴みにするよりも、遠回りしてさまざまなプロセスを含んで到達するほうが、結果的には豊かなものに出会えるのではないだろうか。
が、結果的にはである。今の自分の置かれた環境で判断するより仕方がない。己はたった一人の人生しか経験できない小さな小さな天体なのだ。
9月27日(木)
京都に移り住んでから、人がときどき訪ねてきてくれるようになった。以前は自分が訪ねるのみだった。旅の途中、観光のついで、出張の帰り、何かしら用事を拵えて来てくれるのである。京都とは、ふと立ち寄りたくなる、日常と非日常の交差点のようなそんな街なのかもしれない。
訪ねてくれた友人と、夕食を囲んだり、京都の街を散策したり、行ったことのない店に入ったり、友人のおかげで私も私の中に取り入れる新しいものを得ることができる。
特に誰かと食事することは新鮮な時間だ。一人の食卓は質素で彩りがない。しかし数人で囲む食卓は品数が多く、ボリュームがあり、目にも鮮やかで、おまけにずっと開けるタイミングを待っていたワインを開けるという楽しみもある。
シェアすることは効率的で、創造的な行為だ。もちろんそれらは、「会話」という糸で紡がれた時間の連続の中にある。
9月16日(日)
「それが小説なんだ。そこから小説がはじまるんです。」(川端康成 ちくま日本文学全集解説より)
川端がとある翻訳者に語った言葉だ。人生における全ての出来事、経験は小説の始まりなのだ。自己の中に蓄積していく記憶は断片的に小説の一節となり、そこから紡ぎ合わせるように、様々な断片が連なり作品となっていく。人の一生の様々な場面において、その始まりや終わりは明確ではない。あまりに曖昧なために、人は自ら終わりを決めたりする。しかしそれが解決ということにはならない。自分が気付かない間に、記憶は奥深くまで入り込み、また大切な何かをすっかり失ってしまっている。自己の不在を埋め合わせるために、また新たな小説を書く。
8月28日(火)
愛は、それを知るものの手の中には留まらず
それを認識することも許されはしない
愛を知るものは、手足を縛られそこから動くことができない
息を殺せと誰かが囁く
子どもじみたゲームよりも無機質な日常を好む
7月24日(火)
捉えた瞬間や景色に心が動かされたら、私は黙ってそこを通り過ぎるわけにはいかない。
まるで美術館で出会った一枚の絵画に魅せられるように、すぐにそこを立ち去るわけにはいかない。
そこが自他の境界であり、自分を越える手がかりになる。
しばらくは対象を前にじっとしてみる。
5月28日(月)
蛍を見たのは子どもの時以来だろうか。水の豊富な京都では夏の風物詩としてこの時期に見られる。
蛍の光る姿は優艶で静謐。魂はあるが存在感がない。存在が感じられないというのではなくて、この世ではない違う世界に存在しているようだ。川の水の音だけが耳に響き、見ている映像は無音、まるで二元化された世界を体験しているようだった。
日本のこういった風景の中に身を寄せてみると、不思議な気持ちになる。人間世界の人間は、二元どころか多元の混沌としたひと塊のどこかに拠る。そこが次元のどこなのかは到底わからない。しかし風景に目を移せば、自分の居る場所は容易に確認できる。視点を変えることや、一旦元の場所へ帰ることが大切なのだと、自然は教えてくれるのだ。
5月3日(木)
日が落ちていくにつれ、空は色とも言えないような複雑な陰影を展開する。それに対し、そこに在る山は、ただ静かに漆黒に帰って行く。その漆黒は私の憧れである。
4月24日(火)
とある講演を聞き、生物学者がこんなことを言っていた。
「種を存続し続けるためにはユニークに生きることだ。人がしないことをし、人が着ないような服を着、人が住まないようなところに住み、人が食べないようなものを食べるなど。」
そのほうが他と戦う必要がなく、他に依存せず、やってきた変化に自ら対応するしなやかさを身につけることができる、結果そういう種は生き残れるのだそうだ。これは生物学的に見て。
現代社会、とかく都会でユニークに生きる(人と違うことをする)ことは非常に困難を伴う。なぜなら様々な誘惑や約束事があるからだ。他との関わりがとても微妙なバランスで保たれ、自分のユニークさだけに没頭できるほど社会にキャパシティはない。それはそれで、都会でサバイブするための術は身につけられるだろう。しかし、もっともっと長い期間での種の存続を考えると、いかに身体に精神に負担をかけずに生きるかということを優先する方がいいのではないだろうか。都会の方が落ち着くという人はそれでいいし、一人が好きという人は一人で過ごせばいいし、旅が好きな人は一年中旅をして暮らせばいい。このように選択することがユニークに生きることだろう。
アートの世界ではどうだろう。その世界で、もっと細分化された自分という種を存続させるためにはどうしたらいいか。そこは常に難題である。
2月15日(木)
今日は大島龍彦先生の命日だ。亡くなってから2年が経つ。
龍彦先生は生前、ブログに「四猿庵日記」というのを記していた。実は私のこのDiaryは先生の四猿庵日記を真似て始めた。
今日は龍彦先生のことを想う。久々に先生の日記を読み返してみた。2012年のお誕生日にこう書いてある。
8月17日pm11:00
今日は、僕の誕生日。日付が変わった途端に「誕生日おめでとう」とワイフが言った。記憶が正しければアララテ山にノアの箱船が着いた日だ。つまり、人類が再スタートした日だ。僕も再スタートと行きたいところだがそれはできない。するつもりもない。60年間の上に今の僕があるからだ。ただ積み重ねて行くだけだ。姉と妹と娘から還暦を祝うメールが届いた。感謝。
先生はどこまでも人生に真面目で熱い人だった。出会う前のことはもちろん知る由も無いし、出会ってから亡くなるまでも本当に短い期間のお付き合いだったから、先生がどんな人生を送られてきたのかは、先生が話されていたこと以外は残念ながら知らない。しかし63年の全人生は積み重ねという努力の上に成り立っていたのだろう。今日が昨日までの積み重ねでできていて、明日もまた同じように積み重ねの上にやってくるということを身を以て知っておられたのだろう。
過去やまだ見ぬ未来の膨大な量の時間に向き合おうとするとき、その重みに耐えられなくなるときがある。最近なぜだか自分をダメだと思う日が多い。実際ダメなのかもしれないし、そうでもないかもしれない。わからない。しかし龍彦先生が言うように、積み重ねていくことでしか人生はない。その先に何が待っているのかは、積み重ねて到達してみないとわからない。あるとき先生が、「創作は孤独だよね」と真剣な眼差しで話していたのを思い出す。高村光太郎のこととご自身の研究や執筆のことを重ねて言っておられたのかもしれない。
酒を酌み交わしながら先生とそんな話がしたい。
1月30日(火)
時間は使うためにあるが、細かく切り刻んでいっときも無駄にしないようにと過ごすのは疲れる。ときには何も考えない、むしろ時間を捨てるくらいのフリーの時間が欲しい。ヨーロッパの旅はまさにそれだった。毎日行く先々で出会ったものに反応する、ただそれだけ。全くストレスがなかったし、心から解放されていると実感できた。しかし実際自分が根を張っている場所でそれをすることは難しい。旅先だから解放されるということもある。
男はつらいよ「寅次郎あじさいの恋」でいしだあゆみが寅さんに放ったセリフは「あれは旅先の寅さんやったんやね」。フーテンの寅だって、根のあるところでは普通の男になる。
1月28日(日)
Music is my friend
Understanding, empathic
Forgiving, comforter
A towel to dry tears of sadness
A source for tears of happiness
Liberation and flight
But also a painful thorn
In flesh and soul
-Arvo
Pärt
その棘は、肌の奥まで、細胞の隅々まで突き刺さってくる。
こんなもの、剥ぎ捨ててしまえと、何度も思う。
しかし君は、君だけが僕の友達なんだ。
1月18日(木)
イギリスのとあるドラマを見ていてこんなセリフが聞こえてきた。
"She loves you forever if you let her"
人間関係とはそういうものだと思う。相手を認める(let, allow)ことで理解が得られる。ついつい理解を得ようとするほうを先にしてしまいがちで、そこで憤る。
もし誰かに共感を求めるならば、先にこちらが相手を知ろうとしなければいけない。何かコミュニケーションに歪みや壁を感じるならば、その能動的な行為の欠如だろう。
表現も同じかもしれない。見返りではなく何らかの反応という意味でのbackは必要だ。そこを含めた表現活動をしたいが、まだできていない。
1月7日(日)
あどけなさ、拙さとは、必死にもがいている最中のそのままの自然な姿である。何年後かの自分がそれを見たとき、それが尊いものであることに気づくだろう。作品を創ることは、拙さを全身全霊で表現するようなものだ。完璧を作ることではない。しかし刹那ではない、未来に繋がる思想を持って臨むことが求められる。長い年月をかけて受け継いだできたもの、積み重ねてきたもの、それらがあって今私は息をしている。ピアノを弾いている。それはまぎれもない史実であるから、その歴史から目を逸らさないように、自分の足で歩いてこの先の道もこの目で確かめたい。
新年にこの詩を引用したい。
一人一人の顔は
遠い遠い旅路の
気の遠くなるような遥かな道のりの
その果ての一瞬の開花なのだ
(茨木のり子詩「顔」より)
2017年
11月30日(木)
自由とは、今与えられている時間空間を指す。
生きていれば皆平等に与えられているものだ。
それを自分のために、どのように使うか。使わないという選択肢はない。
先にあるかもしれない何かを想定して今を生きるのは既に自由ではない。
我々は誰にも見られていない。気づかれていない。
今だ。
11月4日(土)
ハロウィンパーティーが盛大に行われている最中、渋谷駅をたまたま通りかかった。井の頭線を降りたところのガラス窓から、人々はスクランブル交差点の出来事を眺めたり写真を撮ったりしている。ふと横を見ると、岡本太郎の「明日の神話」が語りかけてきた。
「本当に叫びたいこと、一人一人の腹の底の、血の吹き出すような訴えに、社会は応えてくれない。ならば孤立を突きつめろ。」
翌日の朝日新聞のコラムに、太郎のこの言葉が載っていた。雑踏の中で会った彼の絵は大きく強く訴えながら、ひどく孤独だった。芸術とはこうも、どこまでも孤独なのか。
10月17日(火)
心に一度触れたものは簡単に剥がすことはできない。記憶と感情は直結している。いかなる感情も人間にとって生きるために必要な循環機能である。それは、蜜であり毒である。
10月8日(日)
言葉は確かに実在しながら、流動的である。人に支配されることによっていくつもの顔を持つ。
それゆえ、私は言葉に全幅の信頼を置きながら、ときには箸で皿の隅に除けることもする。そうしないと、全ての人は怪獣になる。
10月2日(月)
もしも、他の誰かのことを真剣に深く知りたいと思ったならば、それは奇跡に近い。それほどに人間は本来他人に興味がないものだと思う。知的に興味を持つということは、時間と労力と、もしかしたら財力と、ある程度の消費をしなければいけない。だが動物的な感性は誰もが持っていて、ほんの一瞬放つ何か特別な匂いや声や雰囲気は、人の興味を誘う。アートは生殖行為のために異性を誘い出す行動に似ているかもしれない。
9月28日(木)
傷つくことには人間は永遠に慣れないのだと思う。自分に正直であればあるほど、ダメージが大きい。ガードすれば、今度は相手を跳ね返してしまう。経験を積むほど、痛みに強くなるのとは逆に、敏感に感じるようになる気がする。
それでも、どうしても、正直な気持ちを捨てられない。
7月15日(土)
「また会えるさ」は、もう会えないということだ。本当に二度と会えないかもしれないし、会えたとしても同じ気持ちでは会えない。わかっていて、「またね」と言う。わからずに「さよなら」と言う。
6月12日(月)
映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」を観た。グールドのバッハを聴いていると、音楽の構造が3Dのように浮いて見え、バッハがどういう意図で作曲をしたのかがわかるようだ。映画でもそのようなことを言っていたが、しかし伝記映画はどうしても私生活に偏りすぎる。そして天才は最後には気狂いになり周囲の人を振り回して迷惑だったという結末になる。私から見ると振り回されたのは天才のほうだと思うのだが。だって天才は正直に生きているだけなんだもの。
6月9日(金)
映画「ニーナ・シモン 魂の歌」を観た。彼女はクラシックのピアニストを目指していたが、黒人差別を理由に進路を絶たれ、歌手の道に進んでいく。マネージャーの夫とともにスター街道を進んでいくが、そのうちに彼女は自分の歌っている音楽に疑問を持ち始める。時代は公民権運動が隆盛を見せていた。彼女は政治活動にのめり込み、政治的な内容、自身のルーツを問うような歌を歌い始める。それもかなり激しい歌だ。彼女はようやく自分の存在理由を見つけることができたと実感するが、スター路線で売っていた頃のようには仕事ができなくなる。時代は移りゆく。あれだけ激情をこめて歌っていた歌も、時代の変容によって意味を持たなくなる。実際には一瞬光を失うだけだが(戦争や人種間の問題は繰り返すので)。その後はしばらく表舞台から遠ざかる(ざるを得なかった)が、やはり彼女は人生の最後まで歌い続けた。
彼女は映画の中で「時代によって自分が何であるか気づかされた」と語っていた。 彼女は常に自由を求めていた。それはあの時代のアメリカの社会を考えると当然のことだが、社会的な問題を別にしても、努力する人ほど状況に束縛されやすい。つまり自由を失うほど物事を突き詰め、自分を追いつめてしまうからだ。孤独になるのも仕方がない。だからこそ人の心を揺さぶる音楽ができる。
社会に何を発信できるかということは音楽家として常に問われることだが、あまりにもそこに焦点を合わせ過ぎたり、音楽に意味を持たせ過ぎるのは危険行為かもしれない。なぜなら自分の受け皿は自分だからだ。そのバランスをうまく取れるほどミュージシャンは器用ではない。
6月8日(木)
「魂でもいいから、そばにいて 3・11後の霊体験を聞く(奥野修司著)」を読んだ。
震災で大切な家族を亡くした遺族の壮絶な体験は重くて辛くて、涙なしには読めなかった。震災から5年、6年と経ち、当時の体験を語れるようになった人が増えたようだ。震災関連本でも、死んだ人が夢や奇怪な現象として現れるという体験談の本は変わっている。夢でもいいから、霊でもいいから会いたいという遺族の気持ちも身につまされる。
しかし一つ思ったことがある。あの震災で、津波に流されても誰にも探してももらえない人も中にはいたんじゃないだろうか。身寄り頼りなく暮らしていた人もいたはずだ。人の命の尊さと社会的属性には何の関係もないが、死んで命を惜しまれるのとそうでないのとでは、大きな差がある。
6月5日(月)
理解されないから黙る、社会の秩序に沿わないから排除される。それでいいのか?
人には歴史があり物事には経緯があるではないか。それを考えずに判断を下すのはあまりに軽薄すぎる。もう少しがむしゃらになって方法を探したっていいんじゃないか?
5月1日(月)
行動や欲望をセーブすると良いことはない。恒常的にセーブすることが当たり前になっていたら致命的だ。我々は誰に支配されて何に怯えているのだろう。
とある本を読んでいて引っかかった言葉がある。「生死の質」。生きている間は皆、質にこだわる。だが死についての質など考えたことがなかった。死とは、生が完結することなのか、生が破綻することなのか、生の延長なのか、死に方で生の質も変わるのか。今の自分の持ち合わせている了見では計り知れないものがある。ただ、何かに支配される、または支配することは、その人の生と死に関わる影響力がある。
心を寛大に、そのときどきの選択を良しとしたい。今という時間は全て自分のためにある。
4月23日(日)
まず始めに自分を守ろうとすることは、相手を攻撃することにつながりかねない。武術、護身術は自分の身を守り且つ相手を守ることができる。鍛錬を積むことは、相手を攻撃しなくても自分が余裕でいられる、そういう力をつけることじゃないだろうか。
4月20日(木)
好きなだけ伸ばせたらどんなにいいだろう。
好きなだけ踊れたらどんなにいいだろう。
好きなように色を塗れたらどんなにいいだろう。
音に関する願望。ただそれがしたいだけなのに、難しいんだよ。
4月6日(木)
何かに集中して向かおうというとき、いつも、毎回、必ず、何とも言いようのないざわざわした気持ちになる。不安、孤独、そういう類のものだがはっきりそうとも言い切れないような変な気持ちだ。集中モードに入ってしまえばそんな気持ちは忘れてしまうが、エンジンがかかるまでに時間がかかる。これは自分が怠惰な性格だからかと思っていたが、そうでもないらしい。音楽の創作はある程度の思考スペースが必要だ。時間や体力的、精神的余裕。忙しい中ではやはりスペースがそちらへ取られてしまい創作ができない。とはいえやらないといけないので、そういった葛藤との小競り合いが日々小さく行われている。
今日は朝一でカフェに入りコーヒーを飲みながら溜まった新聞を斜め読みした。それもかなりの傾斜読みだが、それでもこの30分間でかなり内側に思考スペースを作ることができる。気付いたことがあった。思考は逆方向ではいけない。つまり何かを成すために行動するのではなく、行動するからそこに辿り着くのである。即興的に生きるのが一番良い。
「春」
黄色, 想像, 内向, 行動, 颯爽, 会話, 閃光, 雨後, 風香, 線対称, 歩く, 期待, 死=再生
じきに全ては緑になる
4月3日(月)
日々目の前にあることを一生懸命やるのが人の道だし確かな一歩に繋がると思う。けれど少しばかり歩幅を広めて上を目指すことも必要な気がする。自分のやりたいことに専念できたら、もっとエキサイティングで、そのことにより大きな伸びが期待できるんじゃないか。
春の寒が厳しい。桜はまだ咲き渋っている。
4月2日(日)
社会貢献とは、個人のごく小さな行動から始まる。その小さなことは、やるとやらないでは大きな違いになる。大義名分は必要ない。人と人とが繋がるのであれば、何でもやるべきだ。少なくとも、自分はそういう生き方をしているのだということを忘れてはならない。
3月30日(木)
自分は、常に音楽という媒体を通して社会のことを考えたり、物事を捉えている。そうでないときもあるが、最終的にはそこに結び付けている。それは癖でもあり、そうすることであらゆる事象を自分に置き換えて考えることができるからだ。誰しも自分の観点からしか物事を見ることができない。他人の脳や身体の状態は、いくら近親者でもわからない。逆に言えばわからないということを前提に人と付き合わなければ嘘になる。
私がライブ演奏をするとき、技術の足りなさや気持ちのブレから、展開の仕方や共演者との絡み方を意図的に方向づけようとすることがある。そういう瞬間は自分に対して、音楽に対してとても冷めてしまう。そのことは、音楽を深めることを阻害する原因になる。そういうことは、音楽的な技術の他に、日常の暮らし方が大きく影響する。誰に対しても、何に対してもフラットでいることが良いと思っている。淡泊になるということではなく、感動、無感動、好き、嫌い、美味しい、不味い、何も予知できないということだ。それをわかった上で、対象に臨む。全体を見通す広い心と、一点を見つめる集中力が問われる。難題だ。
3月19日(日)
自分の仕事は「伝える」ことだ。
相手が誰であろうと、どんな状況であろうと変わりない。
伝えようとする姿勢の欠如は、自分の存在を危ぶむ行為だ。
音楽であれば音を出せばそれで良いが、それ以外の場合、圧倒的に言語表現が重要な位置を占める。ほとんど、言葉。拙くとも、これは大事だ。
伝える努力を怠るとエライ目に遭う。
3月15日(水)
自分の知らない分野のことを勉強するのは非常に面白い。普段いかに狭い世界の中で生きているか、そして社会の中で見えていないこと、見えないような仕組みになっていることがたくさんあるということがわかる。
自分を構成している要素は、今までしてきた経験と毎日触れているもの全てだ。自己実現という意味では音楽でできることが自分にはたくさんあると思うが、それ以外の仕事、社会的立場、対人関係においても、自分の能力と知性は発揮され養われる。
社会の成熟が個人の生活に直結するならば、個人の存在はそのまま社会への提議になる。何かをしても、しなくても、だ。
3月7日(火)
「音楽は静寂の美に対立し、それへの対決から生まれるのであって、音楽の創造とは、静寂の美に対して、音を素材とする新たな美を目指すことのなかにある。」
(芥川也寸志著 「音楽の基礎」/岩波新書 より)
音楽にとっても音楽家にとっても静寂は特別な意味を持っている。昨今の日常(個人としても社会全体としても)においては、何か特別な措置を取らなければ静寂を得ることができない危機的状況にある。ただ無音になれば静寂がやってくるというわけでもない。音楽家に必要な静寂は、物理的に音が無い状況と、精神の静寂の両方だ。どちらかというと後者のほうが重要で、努力をしないと得られない。最近は活字を読むと少し落ち着くようになった。
創作とは常に何かを越えようとするところに糸口がある。それも、目的地や限界値があるわけではない。見るべきものはもっと先、もっと遠くだ。
3月2日(木)
例えば自分の能力を十分に生かせていないと感じたり、つまらないことが邪魔をして自由になれないでいたとしたら、それは自分の命を無駄にしていることだ。正義でも信念でもなく、真意に従えばいいと思っている。他者を認められるかどうかも、自分の在り方にかかっている。
2月28日(火)
音楽は正直よくわからない。このことを長くやってきて、解ることが増えるのと同時に、わからないことも同じくらい増える。だからそこに立ち向かおうとするとき、一歩、いや百歩くらい引いてしまうときがある。やればわかるということもわかっているのだが。
故・大島龍彦先生のことを奥様が「豪快でありながら、石橋を叩いても渡れない性格」と表現されていたのを思い出した。先生の小説を読むと何となくそんな一面が見えるような気がする。私は、「石橋を何百回も叩いてから一気に渡る」タイプかな。
2月17日(金)
呼応したり影響し合って何かを生み出すことは案外楽なことなんじゃないかと思う。そこには関係性があり、ある種主従関係のようなものも存在するから、結果的にそこに身を委ねることになる。一方、相手のいない孤独な作業は楽ではない。自分を相手にすることは最も鍛錬を要することである。
私が音楽を探しに行くのではない。音楽が私を見つけてくれる。そのために動いているのだ。
2月10日(金)
能力は発揮されるべきところで発揮され、エネルギーは消費されるべきところで消費され、求めるものは求めるべきところにきちんと手を伸ばさなければいけない。
自由になるためには精神の自立が必要だ。
もしも欠落があるのなら、他の何かで補えばいい。
もしもやり場がないのなら、場所を変えればいい。
もしも手助けが必要なら、言ってほしい。
2月8日(水)
人は無意識に「価値のあるもの」と「価値のないもの」に分けようとする。本当は価値にあるもなしも無い。多数の賛同が得られればあるということになり、そうでなければなしということになる。ゼロかイチ。あまりに極端ではないか。これだけ多様性のある社会なのに、人間の価値、物の価値が決まった物差しでしか測られない侘しさがまだまだある。というより、それが社会なのか。
私が音楽で考えることは、全ての事象、空間、瞬間が並行に繋がることで価値そのものがなくなる(=崩壊する・喪失する・決壊する)、すなわちそれが創造するということだと思う。これは我々の社会を創ることとも似ている。格付けをする縦の仕組みではなく、有り合わせのものでもアイディアを出し合う横の関わりをもっと広げられないものか。前向きな意見だと思うのだが、音楽家の言うことにはやはり「価値はない」だろう...。
2月3日(金)
PassionやInspirationは向こうからやって来るのを待つしかない。何もないときは不安だし焦る。けれど前に進む意欲がある限り、それらは必ずやって来る。いや、例え意欲を無くしていても、来る。どんなに自分に自信が無くても、希望を持てなくても、諦めずに待っていれば「これだ」というものに出会う。出会ったときには即行動する。このタイミングが大事だ。
1月24日(火)
音楽を自分のものとして結実させるために必要なものは、方法論よりはむしろ哲学だろう。漠然とでも、点と点が結びつくイメージを持っていれば、どんなに長い時間を経ようと、いつかあるべき姿になる。それは元ある場所に帰ったとも言えるし、初めて遭遇した出来事とも言える。始まりと終わりはいつも明らかでない。原点と思っていた地点のその何億年も前、何万キロも向こうにまだまだ世界は広がっている。
1月11日(水)
歴史のひと繋がりや現代に生を受けたことにつけて、自分はなぜ音楽をやらなければいけないのだろうというようなことを考える。そう、「やらなければいけない」と最近切に思う。
自分のやっていることは、確実に過去の歴史を踏襲している。何も目新しいことはない。けれど個人としては、ただ一個の感性を持った人間であり、感性を磨き、他の感性と混ざり合うことができる。それこそが新しい発明であり、唯一潜在能力を発揮できる分野だと思う。
音楽が音楽として自立するまで、あと少しの時間を要する。
時間は流れている。
1月8日(日)
意識は身体に向け、身体を先に動かしてから脳と感情を付いてこさせた方が効率的で間違いがない気がする。間違いがないというのは、「失敗したらどうしよう」とか「その先に何があるのだろう」というような余計なことを考える時間が省けるということだ。
心と身体と脳をきれいに連動させることは難しい。しかしそれも訓練でできるようになると思う。それを統括する役目を果たすのが意識ではないだろうか。
思考や感情が先に動けば身体の動きが止まり、自由がなくなる。この状態がキツイのだ。いつ何時も何にも縛られていたくない。それには、身体を先に動かすしかない。もし動いた後に悔恨や絶望の感情が生まれたとしても、それは行動が良くなかったと後悔し反省ができる。目に見えてわかりやすい。人のせいにもできない。
自分の理想や思惑は、これから起こることや他の誰かの行動に移乗させられるものではない。つまり、人生思い通りにはいかない。だから面白いんだ。
1月2日(月)
希少な体験は、思想を深めてくれる。新しい体験は、視野を広げてくれる。
未だ知らないこと、理解していないこと、深めていないことを、自分のほうへ引き寄せたい。行動することによって、それは叶えられると思う。
実は、人生は時間との闘いなのではないだろうか。「長い目で見れば」「回り道も無駄ではない」などという言葉は、自分への慰めにはなるが、実際にはいつまで人生が続くかなんてわからない。慰めている暇はない。今日できることを一生懸命やって、もし10年後生きていて今日の努力が報われたら嬉しい。
毎日は新しい。
2016年
12月28日(水)
大空に飛び立ちたくて、一生懸命羽を動かしていた。しかし一向に飛べない。飛べたとしてもせいぜい川の向こう岸に行けるくらいだ。少し飛んではすぐに疲れて飛べなくなってしまう。それもそのはずだ。羽が壊れてがさがさになっている。そのことには気づかずただ空だけを見上げて羽を動かしていた。
その羽では無理だよ。一度ここで休んで羽を修復し体力をつけ叡智を養いたまえ。
空は逃げない。君を縛るものは何もない。
12月18日(日)
先が見通せないことは怖いことだ。自分の臆病癖も手伝って足がなかなか進まない。しかしほんの少しでも進んでみるとわかることがたくさんある。なんだそんなことかと思う。
今朝は自宅の窓から大きな太陽が昇るのを見た。自分のクオリティーはこれだ、というものを突き詰めたい。強烈な光を放ちたい。
冬の朝は空気が澄んで、いつもに増して空がきれいだ。
12月16日(金)
「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」の著者・東田直樹氏のドキュメンタリーを見た。印象に残った言葉があった。
「命は大切だからこそつなぐものではなく、一人一人が完結させるものだ」
この考え方は今現在私がトライしていることと一致する。一人で完結させるということは、言葉通り自分一人で戦える強さをもつことと、社会の中での自分の役割を見定め、きちんと関われることだと思う。そして、そのとき自分の居る場所で生き切ることだと思う。完結させることは、人の手を借りないとか依存しないとかいうことではなく、自分の背後にあるものを認識しながらできる限り自分の力で前へ進むことだと思う。
透徹して自分を完結させるには、日々選択することだろう。自分の目で見て何でも選ぶことが重要に思う。
DNAとしての命がつなげなかったとしても、完結させる努力をすることがそれと同等の意味を持つ。明日自分の命も突然打ち切られるかもしれない。しかしそんなことは今日には影響はない。今持ち合わせている時間には限りがあり、だからこそ可能性がある。
今日は初霜が降りた。
12月10日(土)
可能性と限界とを同時に感じるときがある。拠り所を求めず、今だけに集中するとふいに可能性が広がる。反対に終着点を探しながら行動していると限界が早くやってくる。常にどちらかの道程を選ぶことを迫られる。結局は環境によって、自分のクオリティが決まるのではないだろうか。ならば自分が自由になれる方へ流れてゆこう。
12月9日(金)
自由を手に入れるためには多くの徒労がある。反対に不自由の代償には褒美がチラつく。世の中はそんなものだろうか。人間は多くの場合、どんな境遇であれ、矛盾や屈折の中にいてそれを正当化して生きる場所を見つけている。野生動物も生き残るためには厳しい競争があるが、人間だって容易ではない。野生動物に比べ、人間の場合は独り立ちする時期が遅い上に、十分に訓練を受けぬままサバンナに放り出される場合もあるから分が悪い。
しかしながら肉体の衰えを除けば人間は死ぬまで成長できる。逆に言えば、行動することや考えることを止めるときが人間の死だろう。正しい答えなどない。全て自分で決められる自由を皆平等に持っているはずだ。徒労はときに余白を生む。悪くはない。
11月28日(月)
急に思い立って富士山を見に行った。昼頃レンタカーを調達し、久しぶりにハンドルを握ると、どこまでも行けそうな開放感に心が躍った。
今日の富士は素晴らしい姿を見せてくれた。やはり富士は特別だ。近くに行くと、高くそびえ立つあの雄姿に圧倒される。沈みかける太陽に雪を纏った富士の輪郭が映える瞬間は、まさに神々しい美しさだった。
車を置いて、しばし登山道につながる林道を歩いた。確実に山頂へ向かっているのだが、富士の姿は見えない。手が届きそうで届かない歯がゆさに、自分の進もうとしている道を思った。もしかしたら一生手が届かないかもしれない。しかし目指す価値の十分にある対象であることは間違いない。必死に掴もうとするその行為が重要なのだ。
自然は偉大だ。
11月14日(月)
川端康成の「雪国」と「山の音」はもう何度も読み返している。時を経ると違った味わいが感じられて、毎回どこかの箇所に引っかかって涙してしまう。好きな作家はと聞かれると真っ先に「川端」と答えるが、全ての作品が好きなわけではない。中には不可解な作品もある。大島龍彦先生もほとんどは駄作だと仰っていたが…小説を書く技術よりも、ずば抜けて鋭い感性とか、冷静な観察眼とか、情感を表す言葉遣いとか、そのようなものが川端作品の主柱になっていると思う。しかし鋭い感性が技術に繋がることもあると思う。逆はあまりない。たとえば優れた技術を持っていたとしても、充分に行使できない、あるいは自分を超えられなければ、技術はあまり意味がない。
感性というのはあまりに漠然とした概念だが、鋭い感性というのは、両極端を知り得る性質を持ち合わせていることではないだろうか。例えば川端作品のように、迸る熱いものがあったと思うとナイフで切り裂いてそのままというような、確信犯的なやり方は感性の為せる技だろう。理知的であり、野性味がある。川端が生きていたら会ってみたい。
11月9日(水)
人が死ぬということを理解することは難しい。受け入れられない、または何の感情も起きない、そのどちらも、死という現象を明確に捉えることができないからだろう。我々は生きているし、死んだ人も我の中で生きている。だから、死んだ人を急に神格化したり、業績を称えたりすることは、どうも馴染めない。肉体が無くなったら、死んだ人の思想も作品も「遺したもの」ということになり、それはほとんど死んだ人とは別の生き方をするのだろう。しかし本当の遺作は、関わった人間の中に遺されている。
今年は、文学者の大島龍彦先生、作曲家の山口博史先生と、尊敬する先生が二人も他界された。お二方とも60代という若さだ。寂しく、心細い。
11月6日(日)
例えば、生きている途中で感性がくすんだり曲がったとしても、始めのピュアな状態を知っていれば問題はない。混濁した色も、梳いていけば元は原色だったということに気付く。さらに混濁した状態が意識の低下ではないことにも気付く。いつどんなときも内面にある物質に色を付けるのは自分自身だ。眼前に現れるものはそれを映す鏡だ。
雲一つない秋空に、青い記憶が呼び覚まされた。
11月5日(土)
人間関係は面白い。最も面白いのは関係性。その相手とどのような関係性でいるのがより良い関係が保てるのか。この場合のより良いとは、自分が相手を尊敬し、過度な期待を抱かず、対等に意見を交わすことができ、余計な執着をしない関係を言う。関係性によってはこれらと正反対になる可能性もある。だからと言ってわざと距離を作ったり深入りしないようにする、などというのは不自然だ。自然なままで、近しい関係になれるのが心地よい。
出会いも別れも自然の摂理か。