Diary

2018年

2月15日(木)
今日は大島龍彦先生の命日だ。亡くなってから2年が経つ。
龍彦先生は生前、ブログに「四猿庵日記」というのを記していた。実は私のこのDiaryは先生の四猿庵日記を真似て始めた。
今日は龍彦先生のことを想う。久々に先生の日記を読み返してみた。2012年のお誕生日にこう書いてある。


8月17日pm11:00
 今日は、僕の誕生日。日付が変わった途端に「誕生日おめでとう」とワイフが言った。記憶が正しければアララテ山にノアの箱船が着いた日だ。つまり、人類が再スタートした日だ。僕も再スタートと行きたいところだがそれはできない。するつもりもない。60年間の上に今の僕があるからだ。ただ積み重ねて行くだけだ。姉と妹と娘から還暦を祝うメールが届いた。感謝。


先生はどこまでも人生に真面目で熱い人だった。出会う前のことはもちろん知る由も無いし、出会ってから亡くなるまでも本当に短い期間のお付き合いだったから、先生がどんな人生を送られてきたのかは、先生が話されていたこと以外は残念ながら知らない。しかし63年の全人生は積み重ねという努力の上に成り立っていたのだろう。今日が昨日までの積み重ねでできていて、明日もまた同じように積み重ねの上にやってくるということを身を以て知っておられたのだろう。
過去やまだ見ぬ未来の膨大な量の時間に向き合おうとするとき、その重みに耐えられなくなるときがある。最近なぜだか自分をダメだと思う日が多い。実際ダメなのかもしれないし、そうでもないかもしれない。わからない。しかし龍彦先生が言うように、積み重ねていくことでしか人生はない。その先に何が待っているのかは、積み重ねて到達してみないとわからない。あるとき先生が、「創作は孤独だよね」と真剣な眼差しで話していたのを思い出す。高村光太郎のこととご自身の研究や執筆のことを重ねて言っておられたのかもしれない。
酒を酌み交わしながら先生とそんな話がしたい。

1月30日(火)
時間は使うためにあるが、細かく切り刻んでいっときも無駄にしないようにと過ごすのは疲れる。ときには何も考えない、むしろ時間を捨てるくらいのフリーの時間が欲しい。ヨーロッパの旅はまさにそれだった。毎日行く先々で出会ったものに反応する、ただそれだけ。全くストレスがなかったし、心から解放されていると実感できた。しかし実際自分が根を張っている場所でそれをすることは難しい。旅先だから解放されるということもある。
男はつらいよ「寅次郎あじさいの恋」でいしだあゆみが寅さんに放ったセリフは「あれは旅先の寅さんやったんやね」。フーテンの寅だって、根のあるところでは普通の男になる。

1月28日(日)
Music is my friend
Understanding, empathic
Forgiving, comforter
A towel to dry tears of sadness
A source for tears of happiness
Liberation and flight
But also a painful thorn
In flesh and soul
-Arvo Pärt

その棘は、肌の奥まで、細胞の隅々まで突き刺さってくる。
こんなもの、剥ぎ捨ててしまえと、何度も思う。
しかし君は、君だけが僕の友達なんだ。

1月18日(木)
イギリスのとあるドラマを見ていてこんなセリフが聞こえてきた。
"She loves you forever if you let her"
人間関係とはそういうものだと思う。相手を認める(let, allow)ことで理解が得られる。ついつい理解を得ようとするほうを先にしてしまいがちで、そこで憤る。
もし誰かに共感を求めるならば、先にこちらが相手を知ろうとしなければいけない。何かコミュニケーションに歪みや壁を感じるならば、その能動的な行為の欠如だろう。
表現も同じかもしれない。見返りではなく何らかの反応という意味でのbackは必要だ。そこを含めた表現活動をしたいが、まだできていない。

1月7日(日)
あどけなさ、拙さとは、必死にもがいている最中のそのままの自然な姿である。何年後かの自分がそれを見たとき、それが尊いものであることに気づくだろう。作品を創ることは、拙さを全身全霊で表現するようなものだ。完璧を作ることではない。しかし刹那ではない、未来に繋がる思想を持って臨むことが求められる。長い年月をかけて受け継いだできたもの、積み重ねてきたもの、それらがあって今私は息をしている。ピアノを弾いている。それはまぎれもない史実であるから、その歴史から目を逸らさないように、自分の足で歩いてこの先の道もこの目で確かめたい。
新年にこの詩を引用したい。

一人一人の顔は
遠い遠い旅路の
気の遠くなるようば遥かな道のりの
その果ての一瞬の開花なのだ
(茨木のり子詩「顔」より)



2017年

11月30日(木)
自由とは、今与えられている時間空間を指す。
生きていれば皆平等に与えられているものだ。
それを自分のために、どのように使うか。使わないという選択肢はない。
先にあるかもしれない何かを想定して今を生きるのは既に自由ではない。
我々は誰にも見られていない。気づかれていない。
今だ。

11月4日(土)
ハロウィンパーティーが盛大に行われている最中、渋谷駅をたまたま通りかかった。井の頭線を降りたところのガラス窓から、人々はスクランブル交差点の出来事を眺めたり写真を撮ったりしている。ふと横を見ると、岡本太郎の「明日の神話」が語りかけてきた。
「本当に叫びたいこと、一人一人の腹の底の、血の吹き出すような訴えに、社会は応えてくれない。ならば孤立を突きつめろ。」
翌日の朝日新聞のコラムに、太郎のこの言葉が載っていた。雑踏の中で会った彼の絵は大きく強く訴えながら、ひどく孤独だった。芸術とはこうも、どこまでも孤独なのか。

10月17日(火)
心に一度触れたものは簡単に剥がすことはできない。記憶と感情は直結している。いかなる感情も人間にとって生きるために必要な循環機能である。それは、蜜であり毒である。

10月8日(日)
言葉は確かに実在しながら、流動的である。人に支配されることによっていくつもの顔を持つ。
それゆえ、私は言葉に全幅の信頼を置きながら、ときには箸で皿の隅に除けることもする。そうしないと、全ての人は怪獣になる。

10月2日(月)
もしも、他の誰かのことを真剣に深く知りたいと思ったならば、それは奇跡に近い。それほどに人間は本来他人に興味がないものだと思う。知的に興味を持つということは、時間と労力と、もしかしたら財力と、ある程度の消費をしなければいけない。だが動物的な感性は誰もが持っていて、ほんの一瞬放つ何か特別な匂いや声や雰囲気は、人の興味を誘う。アートは生殖行為のために異性を誘い出す行動に似ているかもしれない。

9月28日(木)
傷つくことには人間は永遠に慣れないのだと思う。自分に正直であればあるほど、ダメージが大きい。ガードすれば、今度は相手を跳ね返してしまう。経験を積むほど、痛みに強くなるのとは逆に、敏感に感じるようになる気がする。
それでも、どうしても、正直な気持ちを捨てられない。

7月15日(土)
「また会えるさ」は、もう会えないということだ。本当に二度と会えないかもしれないし、会えたとしても同じ気持ちでは会えない。わかっていて、「またね」と言う。わからずに「さよなら」と言う。

6月12日(月)
映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」を観た。グールドのバッハを聴いていると、音楽の構造が3Dのように浮いて見え、バッハがどういう意図で作曲をしたのかがわかるようだ。映画でもそのようなことを言っていたが、しかし伝記映画はどうしても私生活に偏りすぎる。そして天才は最後には気狂いになり周囲の人を振り回して迷惑だったという結末になる。私から見ると振り回されたのは天才のほうだと思うのだが。だって天才は正直に生きているだけなんだもの。

6月9日(金)
映画「ニーナ・シモン 魂の歌」を観た。彼女はクラシックのピアニストを目指していたが、黒人差別を理由に進路を絶たれ、歌手の道に進んでいく。マネージャーの夫とともにスター街道を進んでいくが、そのうちに彼女は自分の歌っている音楽に疑問を持ち始める。時代は公民権運動が隆盛を見せていた。彼女は政治活動にのめり込み、政治的な内容、自身のルーツを問うような歌を歌い始める。それもかなり激しい歌だ。彼女はようやく自分の存在理由を見つけることができたと実感するが、スター路線で売っていた頃のようには仕事ができなくなる。時代は移りゆく。あれだけ激情をこめて歌っていた歌も、時代の変容によって意味を持たなくなる。実際には一瞬光を失うだけだが(戦争や人種間の問題は繰り返すので)。その後はしばらく表舞台から遠ざかる(ざるを得なかった)が、やはり彼女は人生の最後まで歌い続けた。
彼女は映画の中で「時代によって自分が何であるか気づかされた」と語っていた。 彼女は常に自由を求めていた。それはあの時代のアメリカの社会を考えると当然のことだが、社会的な問題を別にしても、努力する人ほど状況に束縛されやすい。つまり自由を失うほど物事を突き詰め、自分を追いつめてしまうからだ。孤独になるのも仕方がない。だからこそ人の心を揺さぶる音楽ができる。
社会に何を発信できるかということは音楽家として常に問われることだが、あまりにもそこに焦点を合わせ過ぎたり、音楽に意味を持たせ過ぎるのは危険行為かもしれない。なぜなら自分の受け皿は自分だからだ。そのバランスをうまく取れるほどミュージシャンは器用ではない。

6月8日(木)
「魂でもいいから、そばにいて 3・11後の霊体験を聞く(奥野修司著)」を読んだ。
震災で大切な家族を亡くした遺族の壮絶な体験は重くて辛くて、涙なしには読めなかった。震災から5年、6年と経ち、当時の体験を語れるようになった人が増えたようだ。震災関連本でも、死んだ人が夢や奇怪な現象として現れるという体験談の本は変わっている。夢でもいいから、霊でもいいから会いたいという遺族の気持ちも身につまされる。
しかし一つ思ったことがある。あの震災で、津波に流されても誰にも探してももらえない人も中にはいたんじゃないだろうか。身寄り頼りなく暮らしていた人もいたはずだ。人の命の尊さと社会的属性には何の関係もないが、死んで命を惜しまれるのとそうでないのとでは、大きな差がある。

6月5日(月)
理解されないから黙る、社会の秩序に沿わないから排除される。それでいいのか?
人には歴史があり物事には経緯があるではないか。それを考えずに判断を下すのはあまりに軽薄すぎる。もう少しがむしゃらになって方法を探したっていいんじゃないか?

5月1日(月)
行動や欲望をセーブすると良いことはない。恒常的にセーブすることが当たり前になっていたら致命的だ。我々は誰に支配されて何に怯えているのだろう。
とある本を読んでいて引っかかった言葉がある。「生死の質」。生きている間は皆、質にこだわる。だが死についての質など考えたことがなかった。死とは、生が完結することなのか、生が破綻することなのか、生の延長なのか、死に方で生の質も変わるのか。今の自分の持ち合わせている了見では計り知れないものがある。ただ、何かに支配される、または支配することは、その人の生と死に関わる影響力がある。
心を寛大に、そのときどきの選択を良しとしたい。今という時間は全て自分のためにある。

4月23日(日)
まず始めに自分を守ろうとすることは、相手を攻撃することにつながりかねない。武術、護身術は自分の身を守り且つ相手を守ることができる。鍛錬を積むことは、相手を攻撃しなくても自分が余裕でいられる、そういう力をつけることじゃないだろうか。

4月20日(木)
好きなだけ伸ばせたらどんなにいいだろう。
好きなだけ踊れたらどんなにいいだろう。
好きなように色を塗れたらどんなにいいだろう。

音に関する願望。ただそれがしたいだけなのに、難しいんだよ。

4月6日(木)
何かに集中して向かおうというとき、いつも、毎回、必ず、何とも言いようのないざわざわした気持ちになる。不安、孤独、そういう類のものだがはっきりそうとも言い切れないような変な気持ちだ。集中モードに入ってしまえばそんな気持ちは忘れてしまうが、エンジンがかかるまでに時間がかかる。これは自分が怠惰な性格だからかと思っていたが、そうでもないらしい。音楽の創作はある程度の思考スペースが必要だ。時間や体力的、精神的余裕。忙しい中ではやはりスペースがそちらへ取られてしまい創作ができない。とはいえやらないといけないので、そういった葛藤との小競り合いが日々小さく行われている。
今日は朝一でカフェに入りコーヒーを飲みながら溜まった新聞を斜め読みした。それもかなりの傾斜読みだが、それでもこの30分間でかなり内側に思考スペースを作ることができる。気付いたことがあった。思考は逆方向ではいけない。つまり何かを成すために行動するのではなく、行動するからそこに辿り着くのである。即興的に生きるのが一番良い。


「春」
黄色, 想像, 内向, 行動, 颯爽, 会話, 閃光, 雨後, 風香, 線対称, 歩く, 期待, 死=再生

じきに全ては緑になる

4月3日(月)
日々目の前にあることを一生懸命やるのが人の道だし確かな一歩に繋がると思う。けれど少しばかり歩幅を広めて上を目指すことも必要な気がする。自分のやりたいことに専念できたら、もっとエキサイティングで、そのことにより大きな伸びが期待できるんじゃないか。

春の寒が厳しい。桜はまだ咲き渋っている。

4月2日(日)
社会貢献とは、個人のごく小さな行動から始まる。その小さなことは、やるとやらないでは大きな違いになる。大義名分は必要ない。人と人とが繋がるのであれば、何でもやるべきだ。少なくとも、自分はそういう生き方をしているのだということを忘れてはならない。

3月30日(木)
自分は、常に音楽という媒体を通して社会のことを考えたり、物事を捉えている。そうでないときもあるが、最終的にはそこに結び付けている。それは癖でもあり、そうすることであらゆる事象を自分に置き換えて考えることができるからだ。誰しも自分の観点からしか物事を見ることができない。他人の脳や身体の状態は、いくら近親者でもわからない。逆に言えばわからないということを前提に人と付き合わなければ嘘になる。
私がライブ演奏をするとき、技術の足りなさや気持ちのブレから、展開の仕方や共演者との絡み方を意図的に方向づけようとすることがある。そういう瞬間は自分に対して、音楽に対してとても冷めてしまう。そのことは、音楽を深めることを阻害する原因になる。そういうことは、音楽的な技術の他に、日常の暮らし方が大きく影響する。誰に対しても、何に対してもフラットでいることが良いと思っている。淡泊になるということではなく、感動、無感動、好き、嫌い、美味しい、不味い、何も予知できないということだ。それをわかった上で、対象に臨む。全体を見通す広い心と、一点を見つめる集中力が問われる。難題だ。

3月19日(日)
自分の仕事は「伝える」ことだ。
相手が誰であろうと、どんな状況であろうと変わりない。
伝えようとする姿勢の欠如は、自分の存在を危ぶむ行為だ。
音楽であれば音を出せばそれで良いが、それ以外の場合、圧倒的に言語表現が重要な位置を占める。ほとんど、言葉。拙くとも、これは大事だ。
伝える努力を怠るとエライ目に遭う。

3月15日(水)
自分の知らない分野のことを勉強するのは非常に面白い。普段いかに狭い世界の中で生きているか、そして社会の中で見えていないこと、見えないような仕組みになっていることがたくさんあるということがわかる。
自分を構成している要素は、今までしてきた経験と毎日触れているもの全てだ。自己実現という意味では音楽でできることが自分にはたくさんあると思うが、それ以外の仕事、社会的立場、対人関係においても、自分の能力と知性は発揮され養われる。
社会の成熟が個人の生活に直結するならば、個人の存在はそのまま社会への提議になる。何かをしても、しなくても、だ。

3月7日(火)
「音楽は静寂の美に対立し、それへの対決から生まれるのであって、音楽の創造とは、静寂の美に対して、音を素材とする新たな美を目指すことのなかにある。」
 (芥川也寸志著 「音楽の基礎」/岩波新書 より)

音楽にとっても音楽家にとっても静寂は特別な意味を持っている。昨今の日常(個人としても社会全体としても)においては、何か特別な措置を取らなければ静寂を得ることができない危機的状況にある。ただ無音になれば静寂がやってくるというわけでもない。音楽家に必要な静寂は、物理的に音が無い状況と、精神の静寂の両方だ。どちらかというと後者のほうが重要で、努力をしないと得られない。最近は活字を読むと少し落ち着くようになった。
創作とは常に何かを越えようとするところに糸口がある。それも、目的地や限界値があるわけではない。見るべきものはもっと先、もっと遠くだ。

3月2日(木)
例えば自分の能力を十分に生かせていないと感じたり、つまらないことが邪魔をして自由になれないでいたとしたら、それは自分の命を無駄にしていることだ。正義でも信念でもなく、真意に従えばいいと思っている。他者を認められるかどうかも、自分の在り方にかかっている。

2月28日(火)
音楽は正直よくわからない。このことを長くやってきて、解ることが増えるのと同時に、わからないことも同じくらい増える。だからそこに立ち向かおうとするとき、一歩、いや百歩くらい引いてしまうときがある。やればわかるということもわかっているのだが。
故・大島龍彦先生のことを奥様が「豪快でありながら、石橋を叩いても渡れない性格」と表現されていたのを思い出した。先生の小説を読むと何となくそんな一面が見えるような気がする。私は、「石橋を何百回も叩いてから一気に渡る」タイプかな。

2月17日(金)
呼応したり影響し合って何かを生み出すことは案外楽なことなんじゃないかと思う。そこには関係性があり、ある種主従関係のようなものも存在するから、結果的にそこに身を委ねることになる。一方、相手のいない孤独な作業は楽ではない。自分を相手にすることは最も鍛錬を要することである。
私が音楽を探しに行くのではない。音楽が私を見つけてくれる。そのために動いているのだ。

2月10日(金)
能力は発揮されるべきところで発揮され、エネルギーは消費されるべきところで消費され、求めるものは求めるべきところにきちんと手を伸ばさなければいけない。
自由になるためには精神の自立が必要だ。
もしも欠落があるのなら、他の何かで補えばいい。
もしもやり場がないのなら、場所を変えればいい。
もしも手助けが必要なら、言ってほしい。

2月8日(水)
人は無意識に「価値のあるもの」と「価値のないもの」に分けようとする。本当は価値にあるもなしも無い。多数の賛同が得られればあるということになり、そうでなければなしということになる。ゼロかイチ。あまりに極端ではないか。これだけ多様性のある社会なのに、人間の価値、物の価値が決まった物差しでしか測られない侘しさがまだまだある。というより、それが社会なのか。
私が音楽で考えることは、全ての事象、空間、瞬間が並行に繋がることで価値そのものがなくなる(=崩壊する・喪失する・決壊する)、すなわちそれが創造するということだと思う。これは我々の社会を創ることとも似ている。格付けをする縦の仕組みではなく、有り合わせのものでもアイディアを出し合う横の関わりをもっと広げられないものか。前向きな意見だと思うのだが、音楽家の言うことにはやはり「価値はない」だろう...。

2月3日(金)
PassionやInspirationは向こうからやって来るのを待つしかない。何もないときは不安だし焦る。けれど前に進む意欲がある限り、それらは必ずやって来る。いや、例え意欲を無くしていても、来る。どんなに自分に自信が無くても、希望を持てなくても、諦めずに待っていれば「これだ」というものに出会う。出会ったときには即行動する。このタイミングが大事だ。

1月24日(火)
音楽を自分のものとして結実させるために必要なものは、方法論よりはむしろ哲学だろう。漠然とでも、点と点が結びつくイメージを持っていれば、どんなに長い時間を経ようと、いつかあるべき姿になる。それは元ある場所に帰ったとも言えるし、初めて遭遇した出来事とも言える。始まりと終わりはいつも明らかでない。原点と思っていた地点のその何億年も前、何万キロも向こうにまだまだ世界は広がっている。

1月11日(水)
歴史のひと繋がりや現代に生を受けたことにつけて、自分はなぜ音楽をやらなければいけないのだろうというようなことを考える。そう、「やらなければいけない」と最近切に思う。
自分のやっていることは、確実に過去の歴史を踏襲している。何も目新しいことはない。けれど個人としては、ただ一個の感性を持った人間であり、感性を磨き、他の感性と混ざり合うことができる。それこそが新しい発明であり、唯一潜在能力を発揮できる分野だと思う。
音楽が音楽として自立するまで、あと少しの時間を要する。
時間は流れている。

1月8日(日)
意識は身体に向け、身体を先に動かしてから脳と感情を付いてこさせた方が効率的で間違いがない気がする。間違いがないというのは、「失敗したらどうしよう」とか「その先に何があるのだろう」というような余計なことを考える時間が省けるということだ。
心と身体と脳をきれいに連動させることは難しい。しかしそれも訓練でできるようになると思う。それを統括する役目を果たすのが意識ではないだろうか。
思考や感情が先に動けば身体の動きが止まり、自由がなくなる。この状態がキツイのだ。いつ何時も何にも縛られていたくない。それには、身体を先に動かすしかない。もし動いた後に悔恨や絶望の感情が生まれたとしても、それは行動が良くなかったと後悔し反省ができる。目に見えてわかりやすい。人のせいにもできない。
自分の理想や思惑は、これから起こることや他の誰かの行動に移乗させられるものではない。つまり、人生思い通りにはいかない。だから面白いんだ。

1月2日(月)
希少な体験は、思想を深めてくれる。新しい体験は、視野を広げてくれる。
未だ知らないこと、理解していないこと、深めていないことを、自分のほうへ引き寄せたい。行動することによって、それは叶えられると思う。
実は、人生は時間との闘いなのではないだろうか。「長い目で見れば」「回り道も無駄ではない」などという言葉は、自分への慰めにはなるが、実際にはいつまで人生が続くかなんてわからない。慰めている暇はない。今日できることを一生懸命やって、もし10年後生きていて今日の努力が報われたら嬉しい。
毎日は新しい。


2016年

12月28日(水)
大空に飛び立ちたくて、一生懸命羽を動かしていた。しかし一向に飛べない。飛べたとしてもせいぜい川の向こう岸に行けるくらいだ。少し飛んではすぐに疲れて飛べなくなってしまう。それもそのはずだ。羽が壊れてがさがさになっている。そのことには気づかずただ空だけを見上げて羽を動かしていた。
その羽では無理だよ。一度ここで休んで羽を修復し体力をつけ叡智を養いたまえ。
空は逃げない。君を縛るものは何もない。

12月18日(日)
先が見通せないことは怖いことだ。自分の臆病癖も手伝って足がなかなか進まない。しかしほんの少しでも進んでみるとわかることがたくさんある。なんだそんなことかと思う。
今朝は自宅の窓から大きな太陽が昇るのを見た。自分のクオリティーはこれだ、というものを突き詰めたい。強烈な光を放ちたい。
冬の朝は空気が澄んで、いつもに増して空がきれいだ。

12月16日(金)
「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」の著者・東田直樹氏のドキュメンタリーを見た。印象に残った言葉があった。
「命は大切だからこそつなぐものではなく、一人一人が完結させるものだ」
この考え方は今現在私がトライしていることと一致する。一人で完結させるということは、言葉通り自分一人で戦える強さをもつことと、社会の中での自分の役割を見定め、きちんと関われることだと思う。そして、そのとき自分の居る場所で生き切ることだと思う。完結させることは、人の手を借りないとか依存しないとかいうことではなく、自分の背後にあるものを認識しながらできる限り自分の力で前へ進むことだと思う。
透徹して自分を完結させるには、日々選択することだろう。自分の目で見て何でも選ぶことが重要に思う。
DNAとしての命がつなげなかったとしても、完結させる努力をすることがそれと同等の意味を持つ。明日自分の命も突然打ち切られるかもしれない。しかしそんなことは今日には影響はない。今持ち合わせている時間には限りがあり、だからこそ可能性がある。

今日は初霜が降りた。

12月10日(土)
可能性と限界とを同時に感じるときがある。拠り所を求めず、今だけに集中するとふいに可能性が広がる。反対に終着点を探しながら行動していると限界が早くやってくる。常にどちらかの道程を選ぶことを迫られる。結局は環境によって、自分のクオリティが決まるのではないだろうか。ならば自分が自由になれる方へ流れてゆこう。

12月9日(金)
自由を手に入れるためには多くの徒労がある。反対に不自由の代償には褒美がチラつく。世の中はそんなものだろうか。人間は多くの場合、どんな境遇であれ、矛盾や屈折の中にいてそれを正当化して生きる場所を見つけている。野生動物も生き残るためには厳しい競争があるが、人間だって容易ではない。野生動物に比べ、人間の場合は独り立ちする時期が遅い上に、十分に訓練を受けぬままサバンナに放り出される場合もあるから分が悪い。
しかしながら肉体の衰えを除けば人間は死ぬまで成長できる。逆に言えば、行動することや考えることを止めるときが人間の死だろう。正しい答えなどない。全て自分で決められる自由を皆平等に持っているはずだ。徒労はときに余白を生む。悪くはない。

11月28日(月)
急に思い立って富士山を見に行った。昼頃レンタカーを調達し、久しぶりにハンドルを握ると、どこまでも行けそうな開放感に心が躍った。
今日の富士は素晴らしい姿を見せてくれた。やはり富士は特別だ。近くに行くと、高くそびえ立つあの雄姿に圧倒される。沈みかける太陽に雪を纏った富士の輪郭が映える瞬間は、まさに神々しい美しさだった。
車を置いて、しばし登山道につながる林道を歩いた。確実に山頂へ向かっているのだが、富士の姿は見えない。手が届きそうで届かない歯がゆさに、自分の進もうとしている道を思った。もしかしたら一生手が届かないかもしれない。しかし目指す価値の十分にある対象であることは間違いない。必死に掴もうとするその行為が重要なのだ。
自然は偉大だ。

11月14日(月)
川端康成の「雪国」と「山の音」はもう何度も読み返している。時を経ると違った味わいが感じられて、毎回どこかの箇所に引っかかって涙してしまう。好きな作家はと聞かれると真っ先に「川端」と答えるが、全ての作品が好きなわけではない。中には不可解な作品もある。大島龍彦先生もほとんどは駄作だと仰っていたが…小説を書く技術よりも、ずば抜けて鋭い感性とか、冷静な観察眼とか、情感を表す言葉遣いとか、そのようなものが川端作品の主柱になっていると思う。しかし鋭い感性が技術に繋がることもあると思う。逆はあまりない。たとえば優れた技術を持っていたとしても、充分に行使できない、あるいは自分を超えられなければ、技術はあまり意味がない。
感性というのはあまりに漠然とした概念だが、鋭い感性というのは、両極端を知り得る性質を持ち合わせていることではないだろうか。例えば川端作品のように、迸る熱いものがあったと思うとナイフで切り裂いてそのままというような、確信犯的なやり方は感性の為せる技だろう。理知的であり、野性味がある。川端が生きていたら会ってみたい。 

11月9日(水)
人が死ぬということを理解することは難しい。受け入れられない、または何の感情も起きない、そのどちらも、死という現象を明確に捉えることができないからだろう。我々は生きているし、死んだ人も我の中で生きている。だから、死んだ人を急に神格化したり、業績を称えたりすることは、どうも馴染めない。肉体が無くなったら、死んだ人の思想も作品も「遺したもの」ということになり、それはほとんど死んだ人とは別の生き方をするのだろう。しかし本当の遺作は、関わった人間の中に遺されている。
今年は、文学者の大島龍彦先生、作曲家の山口博史先生と、尊敬する先生が二人も他界された。お二方とも60代という若さだ。寂しく、心細い。

11月6日(日)
例えば、生きている途中で感性がくすんだり曲がったとしても、始めのピュアな状態を知っていれば問題はない。混濁した色も、梳いていけば元は原色だったということに気付く。さらに混濁した状態が意識の低下ではないことにも気付く。いつどんなときも内面にある物質に色を付けるのは自分自身だ。眼前に現れるものはそれを映す鏡だ。
雲一つない秋空に、青い記憶が呼び覚まされた。

11月5日(土)
人間関係は面白い。最も面白いのは関係性。その相手とどのような関係性でいるのがより良い関係が保てるのか。この場合のより良いとは、自分が相手を尊敬し、過度な期待を抱かず、対等に意見を交わすことができ、余計な執着をしない関係を言う。関係性によってはこれらと正反対になる可能性もある。だからと言ってわざと距離を作ったり深入りしないようにする、などというのは不自然だ。自然なままで、近しい関係になれるのが心地よい。
出会いも別れも自然の摂理か。

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