『夜、うつくしい魂は涕いて 中原中也14の歌』制作のはなし②
このアルバムには、CDとは別に、豪華ブックレットが付いています。その中には、今回収録した14曲の元となる中原中也の詩とその英訳が掲載されています。
英訳をお願いしたのは、アメリカの詩人、翻訳家、日本文学研究者であられる、ジェフリー・アングルス Jeffrey Anglesさんです。とある文芸書の中也特集で、アングルスさんが中也のいくつかの詩を英訳しているのを見かけ、それからアングルスさんの日本文学に関する論文や雑誌の寄稿などをいろいろ読みました。それでぜひアングルスさんに翻訳をお願いしたいと思い、2年前、ちょうど私がヨーロッパを旅していたときですが、突然アングルスさんにメールをさせていただきました。翻訳の依頼をしたときのお返事は、中也の翻訳は難しいから無理かもしれないとのことでした。既に訳されている数篇だけ送っていただき、ヘルシンキで行なったコンサートのときに引用させていただきました。
これまで中也の翻訳があまり出てこなかったのは、中也の独特な言葉遣い、言い回しが他言語に訳しにくいという理由があるのではないでしょうか。特に中也はサウンド(中也独特の、また日本語ならではの響きやリズム)に強いこだわりを持っていた詩人でしたので、それをそのまま訳すことは確かに不可能かもしれません。ですが、中也の詩にはいろいろな性格があって、アプローチの仕方はたくさんあるなと、私は音楽で考えてそう思っていましたので、きっと翻訳でもそれが言えるのではないか、また、中也の詩だからこそそういった壁を壊して新しい世界が切り開けるのではないか、とそんなことを考えていました。
そうして何度かアングルスさんにアプローチ(しつこいプロポーズ)をしていたら、一年経った頃、突然14篇の詩の翻訳が送られてきたのです!これには本当に驚きましたし、そのときの感激は言葉に表せません。そして、送られてきた訳詩を辞書を引きながら読み進めて、さらに驚きました。中也に負けないくらい、といったら変ですが、実に美しい英詩なのです。
アングルスさんは、ご自身が詩人であると同時に(日本語でも詩を書かれています)、日本の現代詩人、高橋睦郎、伊藤比呂美、新井高子などの翻訳も手掛けていらっしゃいます。一度、伊藤比呂美さんとアングルスさんによる、日本語と英語の掛け合いの朗読を聴いたことがあるのですが、これが素晴らしくて驚きました。言葉が踊り出して、こちらが付いていくのが大変なくらいでした。アングルスさんのお仕事や論文を拝見して、翻訳とは、素人には想像に及ばないくらい奥の深い世界だなと感じました。そのことは、今回の中也の翻訳でよくわかります。
中也の詩は、比較的簡素な言葉で書かれていますが、昭和初期に書かれたものでも、現代では使われていない単語や漢字がたくさん出てきます。このアルバムのタイトル「夜、うつくしい魂は涕いて」は、詩集『山羊の歌』に収録されている「妹よ」という詩から取りましたが、「涕いて」は「ないて」と読みます。「泣く」の意味です。私もはじめ読めませんでした。表紙にルビを入れようかと思いましたが、中也はルビをつけなかったので、あえてそのままにしました。
このタイトル「夜、うつくしい魂は涕いて」をアングルスさんは、"At night, a beautiful soul laments"と訳されました。"laments"という単語は、きっとこの「涕いて」の漢字から抽出されたのではないかと思います。もし「泣いて」だったらどうだったでしょうか。ご本人には聞いていないのでわかりません。
最近、宝生流の能の先生にこんな話を聞きました。「宝生流の謡本(能の詞章が書いてある本)は、いまだにくずし字、旧かなで書かれている。でも、このくずし字の流線や、線の太さ、強さから読み取れる雰囲気がある」と。本来日本語は漢字とかなを様々に組み合わせて、その組み合わせ方や字体で、感情や心を伝える言語なのでしょう。中也の時代にあった言語の習慣は、今の我々が既に持っていないものがたくさんありますが、中也が大事に詩集に残してくれたおかげで、私たちはそれを知ることができます。
数ヶ月前にアングルスさんが来日されているとき、運良くお会いすることができ、今回の翻訳についてたくさん質問をさせていただきました。細かな翻訳の技術的なことは私にはわかりませんが、簡単にレクチャーしていただき、私なりに理解しました。そうして読むとますます素晴らしく、丁寧に翻訳してくださっていることがわかります。いつかそういったことをシェアできる機会を持ちたいなと思っています。
アングルスさんの英訳を読んで、私は反対に中也の言葉をアングルスさんの英語によって理解した部分がたくさんありました。中也の表現は理解するのが難しいところがあり、アングルスさんの翻訳はそういった部分をより透明にしてくださり、さらに中也の優しさを拾い上げてくださっている気がします。とても不思議な現象です。アングルスさんによる中也の翻訳本がいつか出版されることを願ってやみません。
なにはともあれ、ぜひ手にとって読んでいただきたいです。
(つづく)
*****
英訳をお願いしたのは、アメリカの詩人、翻訳家、日本文学研究者であられる、ジェフリー・アングルス Jeffrey Anglesさんです。とある文芸書の中也特集で、アングルスさんが中也のいくつかの詩を英訳しているのを見かけ、それからアングルスさんの日本文学に関する論文や雑誌の寄稿などをいろいろ読みました。それでぜひアングルスさんに翻訳をお願いしたいと思い、2年前、ちょうど私がヨーロッパを旅していたときですが、突然アングルスさんにメールをさせていただきました。翻訳の依頼をしたときのお返事は、中也の翻訳は難しいから無理かもしれないとのことでした。既に訳されている数篇だけ送っていただき、ヘルシンキで行なったコンサートのときに引用させていただきました。
これまで中也の翻訳があまり出てこなかったのは、中也の独特な言葉遣い、言い回しが他言語に訳しにくいという理由があるのではないでしょうか。特に中也はサウンド(中也独特の、また日本語ならではの響きやリズム)に強いこだわりを持っていた詩人でしたので、それをそのまま訳すことは確かに不可能かもしれません。ですが、中也の詩にはいろいろな性格があって、アプローチの仕方はたくさんあるなと、私は音楽で考えてそう思っていましたので、きっと翻訳でもそれが言えるのではないか、また、中也の詩だからこそそういった壁を壊して新しい世界が切り開けるのではないか、とそんなことを考えていました。
そうして何度かアングルスさんにアプローチ(しつこいプロポーズ)をしていたら、一年経った頃、突然14篇の詩の翻訳が送られてきたのです!これには本当に驚きましたし、そのときの感激は言葉に表せません。そして、送られてきた訳詩を辞書を引きながら読み進めて、さらに驚きました。中也に負けないくらい、といったら変ですが、実に美しい英詩なのです。
アングルスさんは、ご自身が詩人であると同時に(日本語でも詩を書かれています)、日本の現代詩人、高橋睦郎、伊藤比呂美、新井高子などの翻訳も手掛けていらっしゃいます。一度、伊藤比呂美さんとアングルスさんによる、日本語と英語の掛け合いの朗読を聴いたことがあるのですが、これが素晴らしくて驚きました。言葉が踊り出して、こちらが付いていくのが大変なくらいでした。アングルスさんのお仕事や論文を拝見して、翻訳とは、素人には想像に及ばないくらい奥の深い世界だなと感じました。そのことは、今回の中也の翻訳でよくわかります。
中也の詩は、比較的簡素な言葉で書かれていますが、昭和初期に書かれたものでも、現代では使われていない単語や漢字がたくさん出てきます。このアルバムのタイトル「夜、うつくしい魂は涕いて」は、詩集『山羊の歌』に収録されている「妹よ」という詩から取りましたが、「涕いて」は「ないて」と読みます。「泣く」の意味です。私もはじめ読めませんでした。表紙にルビを入れようかと思いましたが、中也はルビをつけなかったので、あえてそのままにしました。
このタイトル「夜、うつくしい魂は涕いて」をアングルスさんは、"At night, a beautiful soul laments"と訳されました。"laments"という単語は、きっとこの「涕いて」の漢字から抽出されたのではないかと思います。もし「泣いて」だったらどうだったでしょうか。ご本人には聞いていないのでわかりません。
最近、宝生流の能の先生にこんな話を聞きました。「宝生流の謡本(能の詞章が書いてある本)は、いまだにくずし字、旧かなで書かれている。でも、このくずし字の流線や、線の太さ、強さから読み取れる雰囲気がある」と。本来日本語は漢字とかなを様々に組み合わせて、その組み合わせ方や字体で、感情や心を伝える言語なのでしょう。中也の時代にあった言語の習慣は、今の我々が既に持っていないものがたくさんありますが、中也が大事に詩集に残してくれたおかげで、私たちはそれを知ることができます。
数ヶ月前にアングルスさんが来日されているとき、運良くお会いすることができ、今回の翻訳についてたくさん質問をさせていただきました。細かな翻訳の技術的なことは私にはわかりませんが、簡単にレクチャーしていただき、私なりに理解しました。そうして読むとますます素晴らしく、丁寧に翻訳してくださっていることがわかります。いつかそういったことをシェアできる機会を持ちたいなと思っています。
アングルスさんの英訳を読んで、私は反対に中也の言葉をアングルスさんの英語によって理解した部分がたくさんありました。中也の表現は理解するのが難しいところがあり、アングルスさんの翻訳はそういった部分をより透明にしてくださり、さらに中也の優しさを拾い上げてくださっている気がします。とても不思議な現象です。アングルスさんによる中也の翻訳本がいつか出版されることを願ってやみません。
なにはともあれ、ぜひ手にとって読んでいただきたいです。
(つづく)
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ジェフリー・アングルス|Jeffrey Angles
1971年に米国中西部オハイオ州生まれ、現在ミシガン州カラマズー市在住。二十世紀前半の作家、江戸川乱歩と折口信夫をはじめ、現代詩人の伊藤比呂美と高橋睦郎まで、近現代日本文学の英訳は多数ある。多田智満子の英訳詩集により、日米友好基金の日本文学翻訳賞もアメリカ詩人アカデミーのランドン翻訳賞も受賞、折口信夫の『死者の書』の英訳により、スカグリオネ文学翻訳賞と三好翻訳賞をダブル受賞。2016年の日本語詩集『わたしの日付変更線』により、読売文学賞を受賞。その他の著書に、モダニズム文学における少年愛の研究書『Writing the Love of Boys』と三・一一以降の震災詩の研究兼英訳アンソロジー『These Things Here and Now: Poetic Responses to the March 11, 2011 Disasters』がある。
ジェフリー・アングルスさんの日本語で書かれた詩集 |