大島龍彦先生を偲ぶ会

昨日、名古屋アート&アカデミーin池下にて、大島龍彦先生を偲ぶ会が行われ、参加させていただきました。
早いもので龍彦先生が亡くなられてから一年が経とうとしています。先生と親交の深かった方々と一緒に、思い出話をたくさんしました。
龍彦先生は一つのところに人を集めたり、人と人を繋げる天賦の才能がある方だったなと思います。こうして先生を通じて知り合った方たちと交流させていただけることはとても有り難いです。

奥様の大島裕子先生が今回の会のために文集を作ってくださり、参加者の方々の素敵な文に並んで私も龍彦先生への思いを綴らせていただきました。
ここに転載します。

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大島龍彦先生を偲ぶ会に寄せて 
 
「愛ちゃん」
あの優しい笑顔でそう私を呼んでくださる声を今でもありありと思い出します。人と人との縁は本当に不思議なものだと思います。
私は音楽家ですが、20代で作曲を始めたきっかけが、文学との出会いでした。様々な詩や物語からイメージを膨らませ作曲し、役者さんの朗読に合わせて演奏することがライフワークとなっていました。私は小さい頃から特別な本好きというわけでもなかったので、大人になってから初めて、文学ってこんなに心を豊かにしてくれるものなのだと知りました。そのような過程の中で、いつか取り上げてみたいと思っていたのが「智恵子抄」でした。
201010月、東京・武蔵野スイングホールにて『「智恵子抄」―光太郎・智恵子その愛その死―(原作/高村光太郎 脚本・演出/松田建仁)』の自主企画公演を行いました。公演に向けた作曲準備の折、智恵子の故郷である二本松や療養先の九十九里を訪ねて回りました。そのときに旅のガイドブックとして常に持ち歩いていたのが、大島裕子先生著「智恵子抄を歩く―素顔の智恵子―(新典社)」でした。智恵子と光太郎がどのように共に過ごし、そしてどのようにして「智恵子抄」が生まれたのかを知る手がかりとなる大変素晴らしい著書です。私はこの本にどれだけ助けられたかわかりません。
企画公演が終わった数か月後、ひょんなことから大島裕子先生と連絡を取る機会が巡り訪れました。そして名古屋でお会いする約束をいただき、憧れの著者に会えるとあり心躍らせて待ち合わせの場所へ向かいました。そこで一緒に出迎えてくださったのが大島龍彦先生でした。ですから私にとっては始めは「裕子先生のご主人」という認識しかなく、龍彦先生が大学の教授であり文学博士であり高村光太郎研究の第一人者であることは、実は後から知ったことなのです・・・。初対面にも関わらず居酒屋で焼酎を酌み交わし、もちろん意気投合!以来、龍彦先生、裕子先生とは親しく交遊させていただくことになるのです。
2013年、『「智恵子抄」による ピアノとクラリネットのための小曲集(Cafecats Music)』を制作しました。ブックレットに掲載する詩の校正からライナーノーツまで、本当にたくさんのご協力をいただきました。ご夫妻の存在がなければこの作品も出来上がっていなかったと思うと、素晴らしい出会いに感謝するばかりです。先生もCDを大変気に入ってくださり、「研究室で毎朝聴いているよ」とおっしゃっていました。
龍彦先生とのお付き合いは大変短い期間ではありましたが、名古屋と東京で何度となく一緒にお酒を飲み、その度に文学の楽しいお話や、好奇心旺盛な先生の夢を聞かせていただくのが本当に好きでした。そして私のことを「東京の娘」と言って可愛がってくださり、私も父か恋人(奥様に怒られますが!)のように、何かとても近しいシンパシーのようなものを感じていました。「娘には親を超えてほしい」といつも私のことを応援してくださっていたことも、先生の愛情を感じる一端として思い出されます。
 子どものようにやりたいことをいつも両手に収まらないくらい抱えていた龍彦先生。たぶん、やりたいことのほとんどをやりきれずに旅立たれたことと思います。でも、先生の残してくださった偉大な研究や、文学に対する情熱、人々に捧げられた愛情は、私たちの心の奥深くに、まだ温かいぬくもりとして存在しています。


僕はあなたをおもふたびに
一ばんぢかに永遠を感じる
僕があり あなたがある
自分はこれに尽きてゐる
僕のいのちと あなたのいのちとが
よれ合い もつれ合い とけ合い
渾沌としたはじめにかへる

僕等はいのちを惜しむ
僕等は休む事をしない
僕等は高く どこまでも高く僕等を押し上げてゆかないではゐられない
伸びないでは
大きくなりきらないでは
深くなり通さないでは
何といふ光だ 何といふ喜だ
(高村光太郎「僕等」より)

 ピアニスト・荒野愛子
2017115
 

2014年11月22日東京にて 大島龍彦先生・裕子先生と

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